両想いのおまじない
「……あー……ええと……ここって……吉沢の部屋?」

 あたしたちに訪れた長い長い沈黙を破ったのは、真柴くんだった。

 彼らしくもない歯切れの悪さは、不意に訪れた瞬間が切り取った日常の滑稽さにあるだろう。

 床で腰を抜かしているあたしは中学の時から着続けてる色あせたパジャマを着ていたし、真柴くんは片手に歯ブラシ、片手にコップという出で立ちだった。

「あ……うん……あたしの部屋……」

「えっと……ちょっと記憶がないんだけど」

 その真面目さが災いしているのだろう、真柴くんは真剣に尋ねた。

「俺、どうしてここにいるんだ? いきなり吉沢の家に押しかけて、部屋に入ってきたのか? どうしてその間の記憶がないんだ?」

「いや、そうじゃなくて……」

 説明しかけて、あたしは口を閉じた。

 床の上には倒れ込んだ拍子に放り出したあの本……『両想いになる☆おまじない』が転がっている。

 そのピンクキラキラの表紙が、これほどまがまがしく見える瞬間があるだろうか。あれは「おまじない☆」なんて可愛らしいものではない。危険な呪術書だったのだ。

 そして、いま、あたしはその呪術書で何の罪もない真柴くんを召喚してしまった魔女。それもボロパジャマにぼさぼさヘアーを晒した、間抜けな魔女だ。幸運なことに、己のことに精一杯な真柴くんは全く気にしていないようだが。

「夢遊病……にしてはおかしいよな。俺は眠ってなかったわけだし。ってか、今何時だ?」

 時計を見上げる。それから真剣な眼差しであたしを見る。

 カッコイイ……状況も忘れて、あたしは一瞬見とれる。い、いや、ほら、こんな間近で見つめられたら、誰だって見とれるでしょ。

 けど、真柴くんはあたしの様子なんか全く気にしてないようだった。

「吉沢の家ってどこ? 俺の家は紺屋町だけど」

「えっと、ここは国吉二丁目……」

「国吉? じゃ急いでも三十分は……おかしいぞ、時間が全然経ってない……」

 こんなときでも思考停止せず、論理的に考える真柴くん。すごい。さすが学年一位。かっこよくて優しくて頭もいいなんて、ああもう素敵……と、クラスの女子が見たら、絶対に思うはずだ。あたしだけが特別に思ってるわけじゃない。

 と、再び真柴くんがあたしの目を見た。

「吉沢」

「はいいっ」

 い、いまの声の裏返りは、真柴くんが何度もあたしの名前を呼ぶからだ。返事ばっかりしてたら、そりゃ声も裏返るってもの。見つめられたら、顔も自然と赤くなろうってもの。

 にしても、うああ、赤面が止まらない。

 もし、こんなとこを衣奈に見られでもしたら「やっぱり真柴くんが好きなんでしょ」だなんて言われるに決まってるんだけど、でもホントにもうあたしは全然そういうんじゃなくて、ホンットそういうんじゃないんだから!

 けれど、やはり彼はあたしの反応など気にも留めずにこう言った。

「変な言い方かもしれないけど……吉沢、俺になんかした?」

「何かって……」

 恐る恐る聞き返すあたしに、ちらり、真柴くんが部屋を見回す。

 ヤバい、『両想いになる☆おまじない』が!

 あたしは気づかれないように、そろそろと本の方ににじり寄る。これだけは隠さなければ。そうしなければ、あらぬ誤解を招くことになる。あたしが真柴くんのことが好きだなんて、そんな誤解が――。

「例えば、吉沢が――」

 真柴くんの目がひたとあたしに据えられる。

 あああ、カッコイイ。

 イケメン光線ビュンビュンのその眼差しに、とうとうあたしはプライドをかなぐり捨てた。

 もう、言おう。認めてしまおう。そうすれば真柴くんも納得してくれる。

 あたしはやおら本を掴むと、真柴くんの眼前に突き出した。

「実はあたし、これで真柴くんを――!」

「両想いの……おまじない?」

 言ってしまった。ついに言ってしまった。あなたが好きですなんて告白してしまった!

 できることなら、手足を高速でバタバタさせながら窓を突き破って夜空の彼方にすっ飛んでいきたい、そんな衝動があたしを襲った。

「これって……」

 真柴くんが驚いたようにつぶやく。

 しかしこの直後、この夜、三度目の想定外があたしを襲った。

「吉沢、これって!」

 真柴くんは嬉しそうに顔を輝かせると、あたしの肩を掴んだ。

「これを使って俺を召喚したってことか?!」

「え? ええと、まあそうなんだけど……それはそうなんだけど……」

 あれ? 真柴くん、気にするポイントがズレてない?

「すげえ! マジかよ、ちょっとどれ? どの『まじない』かけたの? 召喚とかすごすぎるだろ……」

「ええと、たしかに召喚……召喚だけど……」

「いいから、説明しろって。どうやったんだ?」

 歯ブラシもコップも放り出し、迫ってくる真柴くんに、あたしは「おまじない」を説明しながら、どうにも釈然としない気分でいた。
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