Sの陥落、Mの発症
初めて会ったときから違和感があった。

人懐こい笑顔に柔らかい雰囲気、適度な距離感。
女性社員には優しく、男性社員には冗談を言いながら明るく振る舞う。

その笑顔がとても精巧な作り物にしか見えなかった。

「中條課長、来月の予算案と月次報告書の確認お願いいたします」
「…分かりました。急ぎの確認が一つあるので預かっておきます」
「はい、お願いします」

端から見ればやる気のある元気で愛想のいい若手社員。

佐野至。先月の異動で商品管理課からうちの営業二課に配属となった。

私はこの男が苦手だ。
この笑顔の下で何を考えているのか分からない。
全く本音の読めない掴み所のなさが不安を駆り立てる。

まぁ、業務について以外の会話をすることがないから日常差し支えはないけれど。

私以外の社員が話す彼の印象がことごとく「気さくに話しやすくていい子」、「用事を頼んでも嫌な顔ひとつしない」、「まじめかと思いきや冗談も通じる面白い奴」というネガティブ要素が何一つない。

どうも私だけが彼に持つイメージがすこぶる悪いらしい。
とにかく普通に仕事をしてくれて、周りとも上手くいっているならそれでいい。


そう思っていたのに。

「あの、佐野さん、実は前から気になってて…良かったらご飯だけでも一緒に行ってもらえませんか…っ」

どうしてこういう場面に遭遇してしまうのか。
普段はあまり人も利用しない保管室。夏前のイベントについて例年の資料を揃えたかっただけなのに。

己のタイミングの悪さを呪いつつ、二人の気配の居場所を確認する。
二人がいるのは一つ棚を挟んだ向こう側。
資料棚は2mはあるし、みっちりファイルが並べられているおかげで音を立てなければ気づかれることはまずない。

「うーん、そうだね、みんなと一緒じゃダメかな?」

普段優しいフリをする割にけっこうはっきり言うのね。
まあ断るなら期待を持たせないのが最良だけど。

「あの、でも私、一度佐野さんとゆっくりお話ししてみたくて…。一度でいいですから、ダメですか?」

これはなかなか面倒な展開かもしれない。
私の勘が正しければ、この男に対する引き際はもうラインを割っている。

「ごめんね、期待をもたせるようなことしたくないから」
「じゃあ、一回だけでもいいんです!思い出にしますから…っ」
「おっと」

引き際の見えない彼女は勢いのままに抱きついたようだった。

きっと、こういう男には一番ダメな女だ。
神経を逆撫でするという意味で、どこまでも地雷原を走っていくタイプ。


「…そう」


そのたった二文字の言葉に背筋に悪寒が走った。
今さっきとは全く違う別人のように低い声。

もう逃げられない。

まるで自分に向けられたかのような錯覚に、不覚にも手元のファイルを落としてしまう。

「きゃっ」

我に返ったのか、ファイルが落ちた音に驚いた彼女はそのまま保管室を飛び出していった。

重い扉が閉じる音。

何も悪いことなんてしてないのに、どうして私がこんな気まずいことに。

こっちへ歩いてくる革靴の音を聞きながら、そういえば朝の占いが最下位だったことを思い出した。

『今日は災難に巻き込まれる日。探し物は明日以降に』

もう、すべてが遅かった。


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