Sの陥落、Mの発症
両腕で囲われた狭い視界に見たことのない熱を持った瞳。

彼は吐息のかかる距離で私を世界から遮断する。

「佐野…くん…」

上手く舌が回らずに上擦った声になる。

「逃げられるなんて、思ってないですよね?」

頭の中に反響する呪いにも似た囁き。
逃げないといけないと思うのに身体が動かない。

「いつもの顔が偽物だって初めて気付かれました。けっこう自信あったのに」
「他の人は、気付いてないと思う…」
「そうでしょうね」
「あの、別に…誰かに言うとか…しないから」
「へぇ…」
「…っ」

彼は私の耳の下で束ねていた髪を一房手に取るとちゅっと音を立てて口づけた。
その妖しい光を灯す瞳に釘付けになり、一気に体温が上がった気がした。
そんな目で見られたら、身動ぎ一つもできない。


「俺が何を考えてるか分かってんだろ」


全身を縛り付ける低い声。
冷たいのに腰に響くその声に足から力が抜けて、崩れ落ちかけた身体を見た目よりしっかりした左腕で簡単に支えられた。
そのまま腰を引き寄せられて。

私の前髪を流した右手が顎にかけられる。

眇られた目が近付き、二秒後を予想して目を閉じた。

「ああ、いい顔だ」

触れられると思った唇は降りてこず、顎にかかっていた手がするりと頬を撫でる。
反射的にびくりと小さく震えると愉しそうな声で彼は言った。

「俺のこと怖がってるのに期待したんだ」
「…っ」

羞恥に顔が染まるのが分かる。
うつ向きかけた顔がすぐに戻されて瞳がかち合った。
目をそらすなんて許さないという仕草だ。

「最高にいいな。その表情なんかめちゃくちゃにしてやりたくなる」
「もう、やめて…っ」
「何を?」
「それ以上、言わないで…」

身体を暴かれるような言葉が、
すべてを見透かすような視線が、
私のなかに浸透していくのが堪らない。

「今自分がどんな顔して言ってるか分かってんの?」
「いや、聞きたくない…っ」
「俺の言うことを聞くなら、解放してあげる」

言いながら長い指が頬をゆっくりと行き来して最後に唇をなぞった。

その口からどんな言葉が紡がれるのか分からなくて怖い。
ただ、背中を駆け上っていく未知の感覚と、この羞恥から今逃れられるなら。

無条件に頷いていた。

その答えに満足したのか彼の口元が笑みを作る。

「もう少し僕のこと可愛がってくださいね、中條課長」

唇に「内緒」をするように人差し指が触れる。
もはや、悪魔の笑みにしか見えない満面の笑顔で彼は言った。

ピラミッドの頂点に君臨する捕食者には逆らえない。
その下にいるものはただ食べられるのを待つしかない。
それが、自然界のルールだ。



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