ドメスティック・ラブ

 『松岡千晶』。
 「新しいシャチハタ作っときなよ」と言いながら糸井さんが離れていった後で、裏紙を使ってつくったメモ用紙にボールペンで書いてみる。やっぱりまだ誰か自分ではない別人の名前の様でしっくり来ない。保険証も新しい物に変わるし、近い内に免許証も変更の手続きにいかなくてはいけないけれど、やっぱりすぐには馴染めそうになかった。
 恋人同士で付き合っていたなら、苗字が相手の物に変わる妄想くらいしていたかもしれない。でもまっちゃんと私はそうじゃない。

 恋人期間をすっ飛ばしたというのは中々に厄介で、気の置けない友人としての付き合いが長過ぎる分、まっちゃんとどうにかなる自分というのも実は未だに想像出来ない。正直甘い雰囲気を作られても笑わずに受け入れられる自信がない。
 いっそ結婚式でのキスを普通にしていたら、皆の前できちんと披露宴をしていたら、この前のお祝い会で酔い潰れなければ。もしかするとあっさり乗り越えられていたかもしれない。今更言っても遅いけれど。


*   *   *


 新年度を迎えたと言っても誰も移動はなく新規に配属された社員もいなかったので、忙しそうなまっちゃんと違いうちの会社の雰囲気はいつもと全く変わらずのんびりとしたものだった。一日有給を取ったにも関わらず仕事も通常進行で特に残業もなく、定時で普通に会社を出る事が出来るあたり、その程度の仕事しかなかったという事だ。
 この緩い空気感に慣れ過ぎてキャリアアップしようという気が起こらず、自分を甘やかしたままずるずるとルーティンワークをこなし続けて、はや九年目に突入してしまった。特に高給取りでもない一般職のまま、おまけに結婚の気配もなく三十路を迎えた私を両親が心配していたのは当然かもしれない。まっちゃんとの結婚に流されてもいいかと思ってしまったのは、私自身多少は未来への不安があったからだったりするし。

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