H ~ache~

壊れた傘

「あら?タマちゃんこれから出掛けるの?」

先輩社員が出掛ける用意をしている女子社員を見て眉をひそめた。

「はい」

現在の時間は18時。
会社の勤務時間は9時から17時なので、これからの仕事は残業ということになる。

「また課長に押し付けられたの?」

ひそひそと聞かれ、彼女は曖昧な笑みを返した。

「そうなのね?若いタマちゃんに難しい仕事を押し付けて…ミスをしたら、会長にすぐ話が伝わるのが怖いのよ」

タマちゃんと呼ばれた女子社員
及川環は、笑って答えた。

女子大を卒業して2年目。
仕事は難しいけれど、充実している。
環は心配してくれる先輩に気にしていない事を伝えた。

「先輩、ありがとうございます。行ってきます」

「何かあったらすぐに言うのよ?」

何かと自分を気にかけてくれる先輩に感謝しながら、仕事道具を入れた鞄を手にした。

「外は雨だから傘を持っていくのよ」

「那奈先輩、ありがとうございます」

オフィスビルを出た環は交差点で赤信号につかまり、信号待ちをしながら雨が振りだしそうな空を見上げた。

環の背後に聳え立つ高層ビルには複合的な会社が入っており、それらはコンサルタント会社、飲食店、不動産、金融…いろいろな会社がグループ会社として存在していた。

スマートフォンが着信を知らせ、環は通話のマークをタップして電話に出た。

「はい…」

『環さん、今よろしいですか?』

「ええ、大丈夫です」

スマートフォン越しに聞こえてくる低くて落ち着いた声に、環は声に笑みを乗せて返事をした。

『環さん宛の手紙がありますので届けます。都合を教えて下さいませんか?』

控えめだが凛とした話し方に、環は相変わらずだと含み笑いをした。

「実家に届く手紙は急ぎではないと思います。再来週、予定通り父のところに行きますのでその時に受けとります」

電話の向こうでは窘めるように環の名を呼んでいた。

『私が何を言いたいかお判りでしょう?先日のパーティーでも具合が悪いのに無理をされましたね?』

「それは…」

忘れようと決めた事が思い出されてしまい、環は何とかこの優秀な父の秘書を宥めようと考えを巡らせた。

『環さん、私に言って下さればよろしいのですよ?』

考えを巡らせたところで上手くいった試しが無いことを思い出した環は、一番手っ取り早い手段を選んだ。

「いつも心配してくださってありがとうございます。葉山さん、これから次の仕事に向かうのでまた後で…」

『そう言って貴女がすぐに連絡をしたことがありましたか?』

そういわれてみれば無い。
環は思い返しながら葉山と呼んだ相手を宥めて会話を終了させた。

信号が青に変わり、環は目的の場所へと向かうためにタクシーを拾った。

< 3 / 30 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop