プラス1℃の恋人
 おそるおそるオフィスに戻ると、千坂は椅子の上でふんぞり返り、うちわをバタバタ振っていた。

「大丈夫かー?」

 その声はいつもと変わらず、青羽は「あれ?」と首をひねる。

 千坂の格好は、さっきと同じカーキ色のタンクトップだった。
 それに、シャワーを浴びたにしては顔がテカッている。

 もしかして、千坂はずっとここにいたのだろうか。
 じゃぁさっき男子更衣室でシャワーを浴びていたのは誰?

 そのとき、ふたりきりだったオフィスのなかに第三者の声が割り込んできた。

「お疲れ様です。頼まれたもの、買ってきました」

 入り口に目をやると、そこに立っていたのはスーツ姿の王子さま。
 営業社員の二階堂淳司《にかいどうあつし》だった。
 どんなに暑苦しい日でも爽やかな笑顔を振りまいている、わが社きってのイケメンエース社員である。

 ――もしかして、二階堂さんが私を……?

 青羽の胸は期待ではずむ。

 クマみたいな中年上司とのオフィスラブは考えられないが、仕事のできるイケメン営業マンとなら、ときめくロマンスも生まれるというものだ。

「おう、悪いな」

 千坂は、二階堂から受け取ったコンビニ袋のなかから、ペットボトルを1本取り出す。

「須田、これ飲んどけ。経口補水液。そのへんのイオン飲料より脱水に効くらしいから」

 手渡されたペットボトルを「どうも」と言いながらしげしげと眺める。
 キャップを開けてひとくち飲むと、甘いようなしょっぱいような若干濃いめの味がした。


 半分ほど飲んで喉を潤したあと、二階堂に小さな声で問いかけた。

「二階堂さん、さっき更衣室にいきました?」

 二階堂は首をかしげる。

「ここに来るまえにちょっと寄ったけど。それがどうかした?」

 キラキラの笑顔でほほ笑みかけられるが、そこに艶っぽさは感じられなかった。
 いつもの二階堂である。

 この反応から察すると、青羽を男子更衣室に連れて行ったのは彼ではないのか?


 そのあと二階堂は、さわやかな笑顔のまま、小さな声でこう言った。

「そうだ、須田さん。社内での密会はいいけど、証拠は残さなうように気を付けないと」

「え?」

「男子更衣室に干してあった服、きみのでしょう?」

「まさかっ!」

 血の気が引いた。

「ときどきいるんだよね。更衣室で、そういうコトするカップル。大丈夫。僕、口は堅いほうだから」

 キラキラ王子様は、にっこり笑って付け足した。

「須田さんって、桃ちゃんと仲がいいんだよね。今度いろいろと協力してね」

 青羽は、熱中症とは別の理由で倒れそうになった。

 こいつ、黒い。
 桃ちゃん、逃げて!
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