戸惑う暇もないくらい
「はーちゃん、ちょうど温まったとこだよ」

お風呂から上がってリビングに入るとキッチンで料理を温め直していた那智が振り返った。

「…ありがと」

結局帰ってきてからお風呂にも入れず反則的なキスのあと、ベッドに直行することになった。
あんなに恥ずかしい思いをさせておきながら自分はご機嫌な顔して、と言いたいところだがそんなことは言えない。
すっきりした顔で鼻歌を歌いながら準備をする那智が少し恨めしかった。

「もう完成だから座っててね」
「うん」

実はお風呂に入る前の行為も、食事をする前の行為も今までの数少ない経験ではしたことがない。

那智は私の中で色んな意味でのイレギュラーだった。
完全に振り回されているのが悔しい。

「はい、完成です」
「おいしそう…」

テレビの前の机に並べられた二人分の煮込みハンバーグとサラダ、コンソメスープ。
二人で食べる那智のご飯はやっぱり美味しくて、気恥ずかしさから来ていたやり場のない気持ちもいつの間にか溶かされていた。

しばらくテレビを見ながら並んで食べていると、ふいに那智が「あ」と何かを思い出したように声を出し、私を見てにっこり笑った。

「葉月に報告がある」
「な、何…?」

急に名前を呼ばれてどきりとする。
那智は近くに置いていた仕事用のリュックからA4サイズの冊子を取りだし、私に手渡した。

「『君とあの街で』…?なに、これ」

那智が何を言おうとしているのか掴めずに顔を見ると、那智は満面の笑みで言った。

「深夜ドラマ。出ることになった」
「え…ドラマ?」
「そう。まぁ出るっていってもヒロインに片思いする幼なじみらしいからそんなに出番ないけど」
「ううん、すごいよ」
「へへ、そうかな。はーちゃんにそう言われると嬉しい」

照れたように笑う那智を見て、すごいと思いつつ、どんどん活躍の場を広げていく彼が少しだけ遠くなりそうな気がした。

こんな状態で、もし異動になったら。

競り上がってきた不安を振り払うように那智とドラマの内容について話しながら食事をした。

那智の活躍を私が一番に応援しないと。

心の内の不安を見ない振りでなかったことにした。
たとえこの先どうなっても、一つ心に決めたこと。

那智の負担には絶対になりたくない。
いつでも笑って背中を押せるようにする。

きゅっと自分の手を握り締め、隣で那智がきらきらした表情で話すのを見ていた。

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