私、古書店の雇われ主人です。
桧垣夫人を訪ねた翌々日。羽鳥さんは、閉店後の店で私の話をじっくり聞いてくれた。うんうんと頷きつつ、ときどき笑いをかみ殺しながら――。

「しかしまあ、桧垣夫人はすごいね」

「そうですよ。あの食券を使って日替わり定食を食べてくるって言うんですから」

想い出があれば寄る辺となる「物」は要らない。夫人はきっぱりと言い切った。だからといって、いくらなんでも教授が栞がわりに使っていたあの食券まで手放さなくても……。

もちろん、私だってさすがに止めた。

「奥様が栞がわりにお使いになるのはどうでしょう?」

「私、読書よりも映画を見るほうが好きなのよね」

(あらら、けんもほろろに……)

「食券は美味しく使ってこそじゃない? 違う?」

「それは、まあ……」

「この古い食券と、あなたがくれた紅茶の食券で、タダで美味しいランチを楽しんでくるわ」

食堂の奥さんは紅茶の食券を三枚くれた。羽鳥さんと私と、おそらく――古い食券の持ち主さんへ。そういう勘定で三枚持たせてくれたに違いない。その辺りのいきさつを話したら、桧垣夫人は喜んで「じゃあ、私の分ね」とその食券を受け取ってくれた。

ちなみに――二人でまた寿々目食堂へ出かけて来いと言われたことは、羽鳥さんには黙っておいた。

「物に執着しないという点では、カンナさんは桧垣夫人と共通しているよね」

「ええっ」

(私が? あの桧垣夫人と???)

あからさまに引く私を、羽鳥さんは「まあまあ」と宥めるように笑った。

「カンナさんは本が好きでしょ?」

「もちろんです」

私は「愚問ですよ?」と言わんばかりに堂々と答えた。

「だったら、大好きな本に囲まれて今はとっても幸せだよね」

「はい。それはもう」

「ここにある本の中には、きっとお気に入りの本なんかもあるでしょ。それでも君は決して思わない。その本を自分のコレクションとして手元に置いておきたいなんて。違うかい?」

「それは……」

まったく羽鳥さんの言う通りだった。気に入りの本であるほど、私は祈るような気持ちで願う。よい買い手がついて大事に読んでもらえるように、と。

「口幅ったいことを言うけれど、カンナさんは本当に本を愛しているから。だからこそ、本にとっての幸せを心から考えて手放すことができるんだよ。桧垣教授もそこを見込んで、君へ託すようにと夫人に言い遺したんじゃないかな」

「そんなことは……」

「古書店はカンナさんの天職なんだよ、きっと」

「買いかぶりすぎです」

もったいない言葉に、私は頬を赤らめ俯いた。

「恋愛みたいだね」

(えっ!?)

思いがけない台詞に、いっそう頬が熱くなる。鼓動まで気持ち速くなったみたい。本当、言葉って不思議。発したのが誰かで色も重さも変わってしまうのだから。

「心から愛していればこそ、相手の幸せを思って手を放す。まるで切ない恋物語みたいだ」

(相手の幸せを思って手を放す。それって……)

「なんだか桧垣教授みたいです」

夫人は言った。大好きなことに夢中になっている夫を見ているのが好きだった、と。きっとそれは、教授のほうも同じだったに違いない。寿々目食堂で紅茶談義に夢中になる夫人と、その様子をにこやかに眺める教授。そんな光景が頭に自然と浮かんできた。

「桧垣夫妻はずっと恋し合っていたんだろうね、きっと」

羽鳥さんは穏やかに微笑んだ。けれども――気のせいだろうか? その瞳はどこか遠くを見つめているような、そんな気がした。私の知らない、遥かはるか遠いどこかを。

(恋し合うと愛し合うは違うのですか?)

素朴に聞いてみたかった。羽鳥さんは知っているのだろうか、その答えを。

いつものように、さらりと聞いてみればいいのに。物知りの羽鳥さんへの質問よろしく。けれども、私はどうにも聞くことができなかったのだった――。



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