先輩、一億円で私と付き合って下さい!
 気合を入れて、待ち合わせの料亭へと向かった。
 夕方になったばかりの宵の口。
 指定先の最寄りの駅から歩いて5分ほどのところにそれはあった。

 高級感を漂わせるように、店先が日本庭園風になっている。
 といっても軒先だけのお飾り程度に過ぎなかったが、それでも暖簾をくぐって格子戸を開けるのには勇気がいった。

 店の中に入れば、すぐさま案内係が腰を低くして対応し、丁寧に俺を案内してくれた。
 奥に入るにつれ、喧騒から遠ざかる静かな落ち着きが、上品に思えていく。

 縁側のような高い敷居。
 案内人が奥の場所で立ち止まった。

 その足元で、黒い革靴のつま先部分が、こっちを向いて段の下に潜り込んでいるのがちらりと見えた。
 案内人が履きものを脱いで静かにその縁に上がり、正座をしてかしこまった。

「失礼します」
 掛け声と共に、襖がすーっと開けば、人影が現れた。

「お連れ様をご案内いたしました」
「フムっ」

 喉を鳴らしたような音が微かに聞こえた。
 なぜか『お代官様』を連想する。
 そしたら俺は『越後谷』になってしまうのだろうか。

 靴を脱ぎ、その部屋に上り込む。
 掘りごたつのようになった4人掛けのテーブルがある、小さな部屋だった。

「まずお飲み物はいかがいたしましょう」
 まだ声を出せるような状態でなく、俺はいらないと手をヒラヒラさせれば、適当にそこに居たもの同士でやり取りをしていた。

 案内人はすぐさま下がる。
 後ろですーっと襖が閉まると同時に閉塞感が現れ、俺は逃げられないと覚悟した。

 その部屋に居た人物は立ち上がり、愛想よく俺を迎え入れた。
 それが自分の父であるとわかっていても、実感が湧かず、ただのおじさんに見えた。

「よく来てくれた、嶺」
 前から俺を知っていたと言いたげに、父親らしく俺を呼び捨てにした。

 背は俺の方が高かったが、横幅は父の方があり、太っているというより、がしっとした貫録があった。

 顔はこの時点ではよくわからない。
 俺はまだまともに見ていないからだ。
< 111 / 165 >

この作品をシェア

pagetop