エリート上司の過保護な独占愛
「悪い……」

 そういってすぐに手を放してくれたが、その場を動こうとせず何か話があるようだ。ほんの少しの沈黙の後、裕貴が口を開く。しかしそれはいつもの声よりもトーンが低い。

「行くのか?」

「はい……あ、バーベキューですか?」

 先ほどの話を聞かれていたようだ。

「絵美さん次第で、参加しようかと……課長は――」

「大迫は――」

 沙衣の言葉を裕貴が遮る。あまり彼らしくない行動に沙衣は驚いた。

「いつから、本城のことを〝沙衣ちゃん〟なんて呼ぶようになったんだ?」

「えっ……それは」

 知らない間にそうなっていた。沙衣だって、大迫に聞きたいくらいだ。なんと説明したらいいのかと逡巡する。いつもと違う雰囲気の裕貴に気圧され言葉が浮かんでこない。

「いや、いい。悪かったな。プライベートなことに首を突っ込んで。これから外出予定だから、机の上に置いてある資料の仕上げを頼む」

「……はい」

 結局何も言えずに、会話が終わってしまった。自分も大迫に〝沙衣ちゃん〟なんて呼ばれて戸惑っているということ、裕貴が自分のプライベートに興味を持ってくれたことをうれしいと思うこと。そのどちらも伝えられずに終わってしまった。  

 歩いていく裕貴の背中に向かって、それらを伝えたい衝動に駆られる。しかし、それらを言い訳がましく伝えたところで、どんな反応をされるかわからない。

 結局沙衣は茶器の乗ったトレーを両手で持ったまま立ち尽くし、去っていく裕貴を見つめることしかできなかった。
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