メープル
神戸

 ある初夏の日の昼下がり、オフィスの机に片肘をついたまま、山口さくらは

「いいお天気ねぇ。こんな日はお散歩でもしたくなるなぁ……」

と何気なくつぶやいた。同僚の恰幅のよい50がらみのおばさんが聞き留め、

「あら、さくらちゃんでもそんな気分の日があるんやねぇ。」

「沢田さん、ひどいですよ。人をサイボーグみたいに。」

「あら、ごめんなさい。これでもホンマ感謝してるんやで。あんたが来てくれるまでは、いろいろ大変やったんやから。」

「ありがとうございます。」

 さくらは神戸の女学院大学を卒業後、すぐにこのオフィスで働き始め、2年目の夏を迎えていた。彼女は、実際、このオフィスでは、細かい面倒な仕事でもめったに間違えたりすることなくきちんとよく働いていた。ここは、トア・ロードという名の1㎞程の坂の中程に建てられた雑居ビルの中にある輸入商“輪傳堂”のオフィスの窓口である。輪傳堂はリンデンドウと読む。戦前の創業者はドイツ人で、リンデンベルグさんという人だったらしい。リンデンとは、Linden と綴るが、シナノキ科の落葉高木である西洋シナノキのことである。ドイツ語では、リンデンバウムというが、バウムは木を意味するから、リンデンでもう、その木のことである。(ちなみに、ベルグやブルグ、バーグなどは、北欧系の言葉では城を意味しているらしいが、それはここでは関係がない。)それで、リンデンベルグさんは、自分の店をリンデンドウと名付けたのだが、その時、こちらの知人に聞いて回って、うまくフィットする漢字をいろいろ調べたらしい。兵庫・神戸は王朝時代には、大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれた時期があり、その輪がリンと読める。さらに、西洋の文物を伝えるという意味で、傳を充てたということらしい。植物も扱うので、いろいろぴったりだと思ったのであろう。ちなみに、現在では、バウムクーヘンなどの洋菓子のお店にリンデンバウムというのがあるが、もちろん無関係である。

トア・ロードは、阪急三宮駅から北西方向に少し行ったところにある。輪傳堂は、雑貨や食品も扱うが、生きた草木などの輸入も行う戦前からある貿易商だった。沢田と呼ばれた古参の事務員は、大阪から通っていて、気立てはよく、面倒見もよい人だったが、横文字についてはからっきしで、特に、学術目的で問い合わせがあったりする草木の学術名などは、見るだけで頭が痛くなるタイプであった。ラテン語原と思われる学術名は、長い横文字がダラダラ続く上に、似た名前だからと言って、どっちでもいいというわけではないことが多い。また、一見全然違うのに専門の人が見ると似たものであったり、逆に、似ているけど、きちんと区別するべきだったりといったことが多いから、注意を要することもあるのである。例えば、都会の街角でも、ひっそりと咲いていてよく見かける西洋タンポポは、正式学名を Taraxacum officinale という。一方、日本の在来種タンポポのうち、例えば、カントウタンポポはTaraxacum platycarpum である。さらには、タンポポだけでも区別される名前のものが10数種類もある。その上、生きた草木や果実などの輸入というのがまた、煩わしいことの多い実務であった。普通、どこの国にもあるのだが、日本にも、“植物防疫法”という法律があり、“農業生産の安全及び助長を図ることを目的に、輸出入や国内移動にあたって植物を検疫し、あるいは植物に有害な動植物を駆除・蔓延防止するための規制”が定められていた。特に、草や木については、根っこにくっついている土壌を完全に洗い流すとか、手続きも煩瑣に決められている。英語でsoilというのは、土壌と訳されることが多いが、これは、単なる無機物質的な土を意味しておらず、その中に含まれる様々な有機成分やミネラル、さらには、その土地その土地の環境に応じて、微妙なバランスを取って存在している微生物たちの生態系をも含んだ土壌という意味なのだった。さらに、輸入禁止とされているものも相当数ある。しかしながら、学術目的の場合、禁止植物であってもきちんと申請すれば、認められることがあるのである。このような申請は、お役所書類の例に漏れず、煩瑣で、わずかなミスも許してくれないから、沢田さんはこのようなことに関わる仕事が苦手だった。さくらは、マニュアルに則ってきちんと手順を踏めば、所望の結果が得られるタイプの作業が苦にならなかった。丁寧に確かめつつ、きちんと処理するので、沢田さんばかりでなく、オフィス内の同僚、上司の評判も上々であった。さくらとしては、初めに必要以上にめんどくさがらず、指示通りにきちんとやっていけば、何度かやっているうちに、手順が頭に浮かんでくるようになるから、そういう風に働いていることが好きだった。そうしていると、なんとなく自分が進歩・成長している気にもなれるのだった。

そんな風に退屈しのぎの雑談をしていると、さくらの目の前のオフィスのドアがノックされた。

「はい、どうぞ」

「こんにちはー」

といいながら、入ってきた青年は、身長も180㎝近くありそうな、なかなか良い体格で、学生時代は何か激しいスポーツでもやっていたのかな?と思わせるシェイプアップされた体躯の持ち主だった。無駄な筋肉は皆無だったが、しなやかな体つきで、動きにも無駄がない。髪も短めに刈り込まれて、特に手入れなどはしていないようだったが、自然にまとまっていて、清潔感がある。ぼーっと見上げていると、彼は藪から棒にメモ書きを見せ、

「これらがここで手に入りますかね?うちの先生が、なるべく早急に使いたいって……」

さくらはメモを見た。そこには、例のなんだかわからない学術名が10個ほども、手書きで走り書きのように書いてあった。落ち着いた様子でさくらは、

「これは、どのようなご用件で?」

「あ、スイマセン。俺は、神戸大学のものなんですが、先生が比較に使いたいとかで、急に言いだいして……。いつもの業者では、半年くらいかかるっていうんですよ。で、もっと早く手に入らんか、調べてこいって言われて……」

「はあ、学術用ですね。少々お待ちください。」

さくらは、発注用の書類を出し、

「ここに、必要事項をお書きください。」

と言った。青年は、ぶつぶつ言いながらも書類を埋め始めた。名前は、上月勇二、住所は……。

「はい、こんなとこでいいですか?」

「お名前は、どうお読みするのですか?」

「かみつきゆうじです」

と言いながら、フリガナ欄を埋めてきた。

「ありがとうございます。明日の午前中には、弊社の方でどのようなご対応が可能か、折り返し、お電話差し上げます。」

「あ、今すぐにはわからないんですか?」

「はい、申し訳ございませんが、学術用のものは手続きも煩瑣なことがございますし、私どもと致しましても、上のそういったことに手慣れたものにご相談させていただきまして、なるべく正確に確実な所をご報告させて頂こうと考えております。」

「あー、まあいいか……。 じゃあ、よろしくお願いしまーす。」

といって、ぶっきらぼうにオフィスを出ていってしまった。バタン、とドアが閉まって、足音が聞こえなくなった頃、沢田さんが間髪入れず、

「うち、あーゆーのあかんねん。つい、喧嘩腰になってまうんよ。」

「そうですか?」

「そーそー、さくらちゃん、よーやるわ、人間ができとるわー!」

「うふふ、別に悪い人ではなさそうでしたよ」

「悪いとか悪くないとやなくてね、なんていうのかなー。バカにされてる気になるんやね。神戸大学だかへちまだか、なんか知らんけどねー」

「そうですかねぇ。」

そういうと、さくらは“上のそういったことに手慣れたもの”に電話を掛けた。


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