メープル
 コテージは、彼の言う通り快適だった。真昼には、日中、日なたは摂氏30度前後にはなるものの、風通しもよく、日陰にはいればエアコンを使うまでもなかった。ユウジが、

「午後は、ビーチにでてみようよ」

というので、彼について行ってみた。海は信じられないような青さで、翠っぽく澄んでいた。波も高かったが、海岸沿いの岩場には野生のウミガメの群れが来ていた。そのあたりは、10数人程度の子供たちがシュノーケリングをして、ウミガメの泳ぐのを眺めていた。スノーケル装備を付けたさくらも彼に誘われて、一緒に泳いで行ってみた。大きなウミガメが5,6頭、悠々と泳いでいた。さながら、宇宙を流離うスペースシップのようだった。さくらは、茶目っ気を出して、潜ってウミガメに触ろうとしてみたが、スノーケルの筒先から、海水を吸い込んでしまい、あやうくおぼれそうになった。

「バカだな、さっき教えただろ!」

といいながら、ほうほうの体で足の着く場所まで戻ってきたさくらを、彼は優しく、抱きあげて、砂浜を「お姫様抱っこ」の状態で、コテージのそばの木陰まで運んでくれた。

「しばらく休んでろよ。何か、飲み物でも持ってくるよ。」

といって、歩き出した。力強く自分を守ってくれたユウジ。遠ざかる彼を目で追いながら、さくらは、このとき、さらにメープルのことをはっきりと思い出していた。

「メープルはあの時やっぱり私を守ってくれたんだよね。ありがとう。あの時、気づいてあげられなくてごめんね。」

涙が溢れてきて、横たわっていたら、そのまま、眠ってしまったらしい。次に気が付いたときには、コテージのベッドの上で、ハワイの綺麗な青白い月が空にかかっているのが窓から見えた。満月だった。窓からは、月の青白い光が不思議な感覚を伴って、降り注いでいた。一瞬、まだ夢なのか、現実にいるのか、さくらにはよくわからなくなった。日本では、古来、ウサギの形といわれているが、そのクレーターの形影まではっきりわかる綺麗なお月さまだった。さくらは、夢の中にいるようなふわふわした心持ちで、窓越しに青白い月を眺めた。

 夕食は、ビーチ沿いのレストランまで歩いていった。海鮮メインのディナーで、ロミロミサーモンやロコモコなどの他に、サイミンやフリフリチキンなども添えてあった。彼は、

「ハワイの地ビールもいけるよ」

といって、ハパ・ブラウン・エールとパニオロ・ペールエールを頼んでいた。さくらはお酒はいける方で、乾杯して、一気に飲んだ。滲みわたるような味で、食もすすんだ。

「昼間はびっくりしたよ。ジンジャーエールを持って帰ってきたら、泣きじゃくったあとがありありで、で、そのまま気を失っていたんだから……。大丈夫かい?」

「うん、もう大丈夫。ちょっと、びっくりしちゃって、で、あなたが優しいもんだから、つい泣いちゃった…」

「そうかい? ならいいけど……。」

ユウジは、じっとさくらを見つめたが、少し、まだ心配そうだった。レストランには、ジャズ・コンボの生演奏が入っていて、ちょうど、”Take the A train” の演奏が始まっていた。さくらは、「ウッドベースがやけに目立つ演奏ね」と思いながら、なんとなく聴いていた。月はまもなく南中するところで、南の空高くに移動して、青白い光を放っていた。

 食事後、そのままテラス席に移り、カクテルを頼んだりして、ゆったりと過ごした。彼は、

「ラムはバカルディのゴールド、ある?? なら、それに半分に切ったライムをスクイーズして、その果汁を注ぎ、軽くステアしてほしい。その後、ピックで丸く削った氷を浮かべて」 「Chaser?? No! NO CHASER!!」

などと相変わらず、こまごまとオーダーに注文を付けていた。ハワイの夜は風も心地よく吹き抜け、バンドの演奏も気分を盛り上げてくれていた。ちょうど、男性のボーカルグループが入り、"Straight No Chaser"を演奏っていた。普段なら、そんなに上手だなとは思わないレベルの演奏であるのだが、周りの雰囲気と妙にマッチしていて、気分的に盛り上がってきた。

他愛のない会話もつきかけてきたころ、彼がちょっと真剣な表情になり、

「今回は、伝えたいなと思ってきたことがあるんだけど。」

といった。バンドの演奏は、“sing, sing, sing” に変わっていた。さくらは、ん? という表情で、小首を傾げて彼の顔を眺めていた。彼は不器用な手つきで、背負っているワンショルダーから、小さな包みをとりだし、さくらの目の前のテーブルにおいた。

「これまで、俺と一緒にいてくれてありがとう。これからもずっと一緒にいてください。」

「そのつもりよ。何をいまさら……。」

さくらは、いつも通り冷静に応じた。しばらくの間、軽い沈黙がながれた。彼は、さくらの顔をじっと眺めて、何かを推し量っているようだったが、

「いや、違うんだ、そういう意味じゃなくて……。今までと同じで、ってことじゃなくて」

「じゃあ、なあに? 今日のあなた、ちょっとおかしいわよ。ふふ。」

バンドは曲調を少し変えて、”blue moon” を演奏しはじめており、今度は Ella Fitzgeraldばりの黒人女性ボーカルが美声を響かせていた。意を決したように彼は、

「俺と結婚してください。大切にします。君を守って生きていきたい」

とプロポーズの言葉を口にした。さくらは、不意打ちをくらったかのように黙り込んでしまった。正直、そうなるかなとは思っていたけれども、今日、はっきりとプロポーズされるとは予測していなかったのだ。なんとなく、なし崩し的に、みたいなありがちな流れを予想していたような気がする。いい人だし、さくらもかなりの愛情は感じていたけど、こういうことをはっきりと言葉で伝えるタイプの人ではないと思っていた。

「ありがとう。ちょっとびっくりした。」

といった瞬間、涙が溢れ始めた。また、メープルのことを思い出した。月の青い光を強く感じた。BGMは、”Moonlight serenade”に変わっていた。トランペットの音が滲み入るように入り込んでくる。涙が止まらなかった。彼が渡してくれた厚めのバーバリーのハンカチで涙を拭いて、見上げた空に月が見えた。青白い光を放ちながら、月は何かを語りかけるように南の空に静かに張り付いていた。まるで誰かが、青白く静かに光る、もっと大きくて大切な何かの塊から、適量をちぎって天球に投げつけたら、そこにぺたっと張り付いちゃったね、というような月だった。クレーターの模様が胸に迫ってくる。メープル?メープルなのね??さくらははっきりとメープルがいま、ここにいると感じた。月の青白い光に包まれた異国のレストランの片隅の席にいながら、はっきりとその存在を感じたのだ。その刹那、さくらは不思議な感覚にとらわれた。失われていた何か大切なものが、戻ってきたような、そんな感覚だった。

「ああ。この人なのね?」

と言ってから、変な返事だな?と思ったけれども、でも、もう言ってしまった。それに、さくらは、彼の言葉の中に、これまでもずっと彼女を常に、もっと直接的に守ってくれていた“何か”もっと大きな力のようなものを感じていた。涙はとめどなく溢れて、尽きなかったが、心地よい開放感と充足感に満たされつつあった。さくらは、「ありがとう、もう大丈夫だよ」と心の中でつぶやき、月をみて、そして目を閉じた。月の青白い光のシャワーが心地よく体全体を貫いていくようなそんな感覚にとらわれていた。ジャズ・コンボはもう、演奏を終えていた。

 はっと気が付くと、また、コテージのベッドの上だった。

「びっくりしたよ。なんだか、また、気を失ってしまったんだよ、君は。俺のプロポーズは、そんなにひどかったかな? それとも、とっても感動的だった?」

照れたようにふざけるその言葉は、もう、いつもの彼の口調で、彼の言葉だった。

「うん、もう大丈夫!もう、元に戻ったから。」

「ん?それならいいけど。」

「うん、大丈夫、ホントに大丈夫になったから」

といって、微笑んで見せた。彼は、じっとしばらくさくらの顔を見つめていたけれど、

「なんか、ホントに大丈夫そうに見えるね。よかった。明日は体調が戻ったら、ハナのビーチの方までドライブしようよ。ハリウッドスターの別荘なんかも並んでいて、静かな、綺麗な村らしいよ。ハナには牧場もあって、搾りたてのミルクも飲めるし、途中の道には、野生のモンキーバナナみたいなのの群生もあって、もいで食べられるよ。」

「ええ、愉しみね。」

「じゃあ、今日は、もうおやすみ!」

と言って、彼は、さくらのおでこに軽くキスしてから、冷蔵庫の方に歩いて行って、ミネラルウオーターのボトルを取り出した。そして、グラスにとぽとぽ注いでから、一気に飲みほした。

「一口、飲む?」

「いえ、大丈夫よ。もう眠るわ。今度はぐっすりと朝まで」

「それがいい。俺の大切なさくら、おやすみなさい」

「おやすみ」

月は、西に傾いて、もう、さくら達のいるコテージの部屋の窓からは見えなかった。目をつぶって、眠りに落ちる刹那、さくらは思った。

「もう大丈夫よ、今までありがとう、メープル」
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