メープル
 ハーブ園は、新神戸の駅に近いオリエンタルアベニューのそばのロープウェイを使っていく。有名な布引の滝や貯水池の上を通って、ガーデンテラスのそばまで行けるのだ。そこで、二人はロープウェイを降りて、展望レストハウスに登ってみた。神戸の街並みや神戸の港が一望できる。素晴らしい眺望のはずだが、その日はあいにくの雨模様で、残念だった。でも、さくらは、久しぶりにのびのびとした気分になり、晴れていたらいい景色だったろうなと思った。ラベンダーやバラのフェアをやっていて、二人は、小雨降る中、カラフルで綺麗、そして、素敵な香りがする園の中を散策した。途中途中で、上月はいろいろ植物について、不思議だったり、興味深かったりする豆知識のようなことを話してくれた。さくらは、そういう薀蓄話がもともと嫌いではなく、適当に合い槌うったり、わからないことは素直に質問したりして、楽しく過ごした。園内の散策をほぼ終えて、クラブハウスのハーブカフェに戻ってきたころには、自然に手をつないで寄り添うように歩いていた。さくらは、上月さん、変な人だけど、妙な安心感があるのよね、この人と一緒だと、っと思いつつ、雨のハーブ園を歩いていた。

 ハーブカフェでは、上月は神戸の港や布引の水について話し始めた。

「さくらちゃんのほうが詳しいかも知れないけど、コウベウオーターといえば、世界の船乗りに愛されたんだよ。特に、戦前は。おいしいし、それに、腐りにくいんだよね。神戸に着任が決まったとき、いろいろ調べたんだ。正直、ラッキーって思ったね。だから、ここのハーブティーもこんなに美味しいんだよね。神戸の街は、六甲山脈が斜めに楔のように瀬戸内に突き刺さっていて、まあいえば三角な形になってるでしょ。で、山から港までがとても近いんだよね。だから、水が淀まず、清廉なままなんです。実際、ミネラルが適度で、バクテリアの繁殖のもとになる有機物が極端に少ない、これは六甲の恵みなんですよ。山や森林が一つの根本なんです。山や森を必要以上に荒らすと、土砂が流出して川が荒れたりするでしょ、それが、水質を変えたりするんだよ。それは、河口の港湾の性質を変え、結局生態系全体を狂わせていくんだ。みんな繋がっているんですよね。」

「なるほどねー。上月さんの研究もそういうこととつながっているんですか?」

「直接、そういうことをやっているわけではなく、もっと基本的なことを調べているんですけどね。ただ、そういった科学的な知見をきちんと整理して、公表して行くことが回り道なようで確実だとは信じています。」

といった。こういう時の上月は、そこはかとなく自信が滲み出ていて、普段のチャラくて変な上月の人柄を差し引いても、「ちょっといいな」って素直に思えた。それ以上に、なぜかさくらには上月に少しずつ惹かれている自分を客観的に眺めているもう一人の自分がいて、この人とはもう少しきちんと知り合っても良いような気がしていた。彼の言う違和感というのもなんとなく気になっていた。

 “布引”というのは、有名な“布引の滝”の布引である。これは王朝時代から歌にも詠まれていて、人の手で磨かれた名勝でもある。王朝時代の歌人好みの絹糸を織り込んだような繊細美麗な滝で、さらに、水自体も銘水として有名であった。地下水が適当に花崗岩層で磨かれて、おいしくなるのである。灘の旧い酒蔵などは、ここの水を使っているので、古来、銘酒が作られ続けてきたともいえるらしい。上月は、「専門外なんだけど」と断りつつ、そういったこともよく知っていた。歴史も好きだったらしく、兵庫・神戸は、大輪田泊といった王朝時代をはじめ、源平のころの平清盛、そして、幕末の勝海舟などと節目節目には必ず出てくるんだと言ったりした。さらに、彼は、

「残念なことに、昔は、神戸の街の飲料水は基本的にすべて、布引貯水池やその近辺の同じような良質の水だったんだけど、現在は、人口も増えすぎてしまって、庶民用には神戸は大阪から淀川の水を買っているんだ。だから、夏は臭くなることも多いんだよ。そうそう、その臭くなる原因もシアノバクテリアだったりもすることがあるんだ。覚えてる?さくらちゃん、最初に来たとき間違えて飲んだやつのこと。緑色の汁!あれ、ちょっと生臭かったでしょ。あれです。ま、琵琶湖は淡水で、こないだのとは少し、種類が違うんだけどね。」

「思い出したくないですけどね。でも、まあ、おなか壊したりはしませんでした。」

「シアノバクテリアは、少なくとも27億年前には地球上に発生していたんだよ。それは化石から解ってるんだ。光合成するので、彼らの大繁殖が地球の大気環境を劇的に変えて、その後の生命の進化に決定的な影響を与えたんです。具体的に空気中に酸素がとても増えた。大気にオゾン層ができた。これが太陽からの紫外線などの有害放射線をかなり、吸収してくれてる。生命体の陸上進出はこれなしにはあり得なかったんだと考えられていてね。少し前に、フロンがオゾン層を破壊するって騒がれたことがあったけど、これはかなり危ないんだよ。DNAそのものの破壊につながるので、生命にとっては根本的な問題なんだよね。」

「へー、あんな臭くて、まずい奴がねー。」

「それに、最近では、NASAなどが主導で、火星の大気を人間にとって改良しようって計画まで、まじめにあるんだ。火星にシアノバクテリアの一種をいくつか、人口的に移植して、人間が移住できる環境を整備しようって、さ。すごいよね。」

「いつ頃火星に住めるの?そんなこともわかるの?」

「いや、本当に形になって表れるのは何百年もさきかも、だけど、まじめな研究が進んでいるのはすごいでしょ。で、ちょっと話それるけど、ヨーロッパの有名な予言の書みたいなのでも、西暦で30世紀くらいには、他の惑星に移住できるようになっているって書いてあるらしいしね。そうなってるかもね?面白いよね。」

「夢のある話ねー、楽しいわ、そんな風に話されると。」

さくらは、自分が火星の真っ赤な大地に、大きな家を建てて住んでいるところを想像してみた。なんか、荒野にガンマンみたいなのが、何人かぞろぞろと歩いていくような風景が想像されてきて、「そんな古いアニメがあったかしら?」と思ったりした。それで、子々孫々つながっていくことが大事なのね、って考えて、ちょっと、怖くなったりもした。なんとなくとりとめのない一日が暮れつつあった。

ロープウェイで北野のあたりの乗降場まで戻った時には、雨も綺麗にあがって、雨上りの澄んだ空を夕日が綺麗に染めつつあった。上月は、

「まだ、今日は時間あるかな?今日は、実は、車で来てて、新神戸駅前の駐車場に置いてあるんだ。よかったら、神戸の夜景を見に行こうよ。」

「そうですね。今日は、いろいろ話してくれたし、楽しかったし、特別ですよ。」

「うれしいな。じゃあ、行こう!ありがとう。」

と、なんとなくウキウキと歩いていく上月を後ろから、クスクス笑いながら眺めつつ「ホントに変な人、それにあたしなんかのどこがそんなにいいのかしら?不思議な人ね。」などと思いを巡らせながら、ついていくのだった。
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