私はミィコ
初めての朝
「……こ」
「ん……」

くすぐったくて身じろぐ。
撫でる手が心地良い。
あったかくて、もっと触って欲しくなる。

「ミィコ」


ちゅ、と音は鼓膜の側で響いた。
また脳に直接響くような声。
どくり、と心臓が跳ねて私の頭は瞼に開くよう指示を出した。
ゆっくり重たいそれを持ち上げる。


「起きたか。ミィコ、おはよう」
「ん……おはよう?」

ほとんど寝ぼけてそう紡ぐと、とたんに目の前の顔が思い切り歪んだ。
一瞬反応が遅れて、それからあ、と思い出す。


「!にゃ、あ……?」

そう、私は今、ミィコ。猫なのだ。


「ふふ、おはようミィコ」

鳴いたら満足したのか彼はそう笑って私の髪を撫でた。


「お腹が空いただろう? 今食べさせてあげるよ」

彼はそう笑ってベッドから抜け出す。
私と同じ生地の黒いガウンを着ていること。
昼間よりも髪がぱさっとしていることに漸く気付く。


「ああメアリおはよう。……そう、それで頼むよ」

ベッドのそばにパネルらしきものがあり、それに向かって話す彼をぼんやりと見つめる。
どうやらメアリと会話しているらしい。
頭がなんだかまだ眠っている。
今は何時なんだろう。
時計はどこ……


「ミィコ、それじゃあ廊下に出てメアリと合流するんだ。30分に後に俺の部屋で会おう」

彼はそう言って私に起きるよう促す。
本当はまだ眠くて二度寝しちゃいたい。
でも、彼のにっこりとした笑顔は早くしろと言わんばかりで、仕方なしに頷いてベッドから出た。
そのまま、扉へ向かって廊下に出るとすぐ、メアリの姿があった。


「おはようございます、ミィコ様。まずはあなたのお部屋にご案内いたしますので、ついてきてください」

軽く頭を下げた彼女にそう言われて、そのまま後に続く。
また赤絨毯の上をスリッパで歩く。
ふかふかとそれを踏みしめていると昨日のことがしっかりと思い出された。

真ん中あたりにあるあの階段も通りすぎ、反対側の通路にはいくつもドアが続いていた。
彼の部屋や寝室よりもきっと部屋そのものが狭いんだろう。こちら側の方が数があるらしい。



「ここになります。もし分からないようであれば、のちほど目印をつけさせていただきますので」

メアリはそう言って一つの扉の前で足を止めた。
鍵を差し込んで開く。
中はシンプルな作りだった。
安いビジネスホテルより少し広いぐらいの部屋。
ベッドとテレビモニターがあり、壁側にはクローゼットとドレッサー。
大きな姿見。


「クローゼットにはミィコ様の衣装が入っております。着替えはその中のものを着用ください。下着も旦那様がお選び下さったものを着用していただきます」


彼女はつかつかと奥へと進みクローゼットを開けてみせた。
昨日着たのとほぼ同じ、真っ黒い衣装がずらりと並んでいた。
右端にある引き出しを開けて見せるとその中にはどうやら猫耳カチューシャやグローブが入っているらしい。


「――もうご存知だとは思いますが」

彼女はそれらを一瞥して私に顔を向けた。
青のパッチリとした瞳が私を映す。


「ミィコ様は旦那様にとっての愛猫です。あなたは旦那様の前で完全な“ミィコさま”を演じて頂きます。今週は試用期間ですのでメイクやウィッグなど私、もしくは他のメイドが行いますが、本採用となりましたらご自分で出来るようになってください。出来れば地毛をウィッグに近付けて頂くことをオススメします。今日にでも美容室に行きましょう。それから旦那様の前で」
「ちょっと待って、ストップ!」
「……はい?」
「待って、少し……メモを取らせて」
「かしこまりました。ペンと紙はこれをどうぞ」

すらすらとまるで目の前にカンペでもあるかのように語り始めたメアリに、私は頭を押さえて制止の声をかけた。
彼女はきょとんとしながらも、ベッドの側にあった紙とペンを私に差し出した。


「えーと、今日は美容院に行くのね? それから、わたしはミィコを演じる、ミィコはねこ、と」


ベッドの端に座り聞いたことをメモしていく。と彼女は続きを紡いだ。

「はい。今は試用期間ですので多少は甘く見てくださると思いますが、本採用は旦那様の前で喋るのは禁止です。なるべく猫のように振る舞ってください。出来れば……二足歩行じゃない方がいいかもしれません」
「え、そこまで……?」

私がげっという顔をするとメアリの綺麗な顔がほんの僅かに歪んだ。


「あなたに旦那様がどう映っているのか分かりませんが、きっと変人、おかしな人、そういう括りになるでしょう。しかし旦那様はふざけているわけではなく、本気で“ミィコさま”を探していらっしゃいます。それを馬鹿馬鹿しいと思うのであればどうぞ、一週間で終わらせてください」
「そういう言い方……」


棘があるように聞こえて眉を下げる。と、彼女は小さく溜息を吐いた。

「何も……あなたが初めてではありません。“ミィコさま”に挑戦した方は少なくとも10人はいらっしゃいますが、大抵は2日、長くても5日で辞めていきました。それほど大変な“お仕事”なんです。あなたが心からミィコさまになろうとすれば旦那さまにも伝わりますし、旦那さまが気に入るようであれば、しっかりとお給料は弾ませて頂きます。ただ、適当に“ねこごっこ”をしようというつもりであればどうぞ辞めてください」
「……どうして、私なの?」


言っている意味は、正直分かるようでわからなかった。
言葉として表面は理解出来ても、その奥底にあるもの……というか。
メアリや“旦那様”である彼が求めているものがよく分からない。
ただ、この人たちがふざけている訳じゃないこと、メアリは心から彼を慕っているんだろうなというのだけは何となくわかった。
でも、だからこそ余計に、どうして私が選ばれたのか分からなかった。
だから問いを投げたのに、メアリは一瞬だけきょとんとして、ふっと笑ってみせた。


「素質があったから……じゃないでしょうか。他に質問がなければ、ドレッサーの前に座ってください。メイクをするので」
「え、ええ……わかったわ」

彼女の笑みも、彼によく似ていて有無を言わせない威圧感があるなと何となく思っていた。
私は彼女のことをよく知らない。
年上か年下なのかも。
でも、それ以上に……


「――ねぇ、彼のこと、教えてくれる? 名前とか年齢とか、何の仕事をしているとか、基本的なことでいいから……」

ドレッサーの前に座ってメアリに髪を纏めてもらう。
ネットで束ねてその状態でメイクをされる。
カラコンをつけて肌のトーンをあげて、それから目を作って、眉毛も描いて。
少しずつ鏡の中の私が、“私”から“ミィコ”になっていく過程をぼんやりと眺める。
いよいよウィッグをかぶせる段階でそう尋ねると彼女は手の動きを止めないまま答えた。


「それは、“ミィコさま”には必要のない情報かと。必要であれば旦那様から教えてくださるでしょう。あなたは、旦那様について詳しく知るよりも、どうすればミィコ様になれるか、について考えた方がいいですよ」


淡々と。
声にはあまり色がなくて。
それが答えなのかもしれないな、とぼんやりと思った。
彼女の手に全てを任せて力を抜く。


目を閉じてうとうとして、何分経ったのか……名前を呼ばれて目を開くと、鏡の中には“ミィコ”がいた。

「はい、完成です。まだ5分ほど余裕があるので、もしお手洗いや他に済ませておきたいことがあれば今のうちにどうぞ。私は廊下におりますので、5分経ったら出てきてくださいね」

彼女はぱたぱたと片付けてそう告げながら扉の前へと行く。
「それでは、一度失礼いたします」

そう頭を下げて出ていく彼女を見送った。
5分かあ……短いな。すぐじゃん、なんて考えつつ部屋を見回すついでにトイレを済ませて、いつの間にか運ばれていたらしい私の荷物の所へ。
スマホを起動すればいくつか連絡が来ていた。

『週末飲みにいかない?』

そんな友人からの久々のお誘い。
どう返すか迷って動きが止まるとすぐ、見計らったかのようにノック音。


「ミィコ様。5分経ちましたが」
「! っごめんなさい! 今行きます」


結局既読だけつけてそれを鞄に押し戻し、私は部屋を後にした。

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