struck symphony
一滴
夜の帳が下りる頃 ーー






劇場の前に、一台のタクシーが停まる。



後部座席の扉が開き、現れた白肌の長い足が、
深色ベルベットな
バーガンディカラーのハイヒールの
足並みを揃える。



特別な日に奮発した高鳴る想いに、
チャコールベルベットのワンピースの裾が、
揺らぐ。




恵倫子(えりこ)は、
幼い愛娘,響(ゆら)を優しく抱きかかえながらタクシーを降りると、

躍る胸に、
零れそうな笑口を噤みながら
劇場の入り口へと向かった。




やっとの想いで来た、
憧れの人のピアノコンサート。



回転扉を入ると、目に飛び込んできた、
気品高く煌めく内装、輝くシャンデリア。







抱っこから降りようと
足をバタつかせる響を 腕から降ろし、

初めて見る…

夢の世界のようなその空間に 目を奪われ……







係員の声かけに、直ぐ様チケットを出す。


半券とパンフレットを貰いながら、

恵倫子は、響の手を引き、
静かに中へと歩みを進めた。




エントランスからロビーに入ると、
響が、愚図りだした。

「ママ、おしっこ…」


焦る心を抑え、
レストルームの案内標識を見つける。


鑑賞ホールの扉を横目に、急いで、レストルームへと響を連れた。





すんなりと済み、個室を出て、
恵倫子は、響を手洗いへと促す。

と、その時、

男性側のレストルームから出ようとしていた、
ひとりの とある男性が、
恵倫子たちの声に反応し、
ファンならば見つかるまいと、咄嗟に隠れた。
恵倫子たちが居なくなるのを待つように、 息を潜める。


そんな事とは露知らず、
恵倫子は、
手を洗う響を見守りながら、優しく言った。


「ゆら。
今度,年中さんの演奏会で、
鍵盤ハーモニカを弾くよね」

「うん…」

「上手に弾けるように、今から、
おまじないよ。
プロのお兄さんのピアノは、
凄い力があるの。
初めてだけど、今日は特別!
今から一緒に聴こうね?」

「うん」

「おりこうさんね」


“鍵盤ハーモニカ… 懐かしいなぁ…”

会話が聴こえていた とある男性は、
娘に語りかけるその声の あまりの美しさに、
どんな女性なのだろう…と、
気になりはじめた。



恵倫子は、響の手を引き、レストルームを出て行く。

その気配を察した とある男性は、
静かに扉を開き、外へと顔を覗かせた。

すぐ様、母娘の後ろ姿を捉える。

すると、
男性の心に、動揺が走った。

女性の後ろ姿から感じた、ハッとなる程の
オーラ…



恵倫子は、そんな視線を感じることもなく、
響を促しながら
鑑賞ホールへと扉を入っていった。



とある男性は、扉を出て、深呼吸をひとつ。


これから始まる
自分のコンサートの成功のためにも、
自分を落ち着かせるように…。



“観に来てくれた人か…
あんな…オーラがある人なのに、今まで…
見たことなかったな…
…初めて、来てくれたのだろうか…”



とある男性は、
いつもらしからぬ手汗を拭いながら、
間もなく開幕のステージへと向かった。







恵倫子は、響を座席に座らせ、自分も座席に
静かに腰を下ろす。


開演前に席に着けたことを安堵しながら、
さっき貰ったパンフレットを見つめた。


そこには、
今から観る、大ファンなピアニスト
香大陽音(こうだい はると)が、
スマートな笑みで
綺麗なピアノとともに写っている。


そう。
今日は待ちに待った、
ピアニスト 香大陽音のピアノコンサート。


愛娘と楽しむことを共有したくて、
一緒に来た。


恵倫子は、恋心にも似た眼差しで、
その写真を じっと見つめる。


そんな、初めて見るママの横顔を
響は、
“ママ… いつもと…ちがう…”
と、
不思議さを感じながら
窺うように 静かに見つめていた。







観客席から
期待の空気が幕越しに伝わってくる、
ステージ。


其処に ゆっくりと上がった とある男性、
ピアニスト 香大陽音。


彼の演奏のはじまりを待つ、
照明や幕を切るスタッフ。

そして、何より 観客たち。

しかし、


さっきの女性が 気になった陽音は、
すぐにはピアノに向かわず、
袖幕へと静かに歩み寄り、
観客に気付かれないように 幕の隙間から
客席を覗いた。


“!、いた”


陽音が、座席の母娘の姿を捉えるのに、
時間は掛からなかった。

その理由や理屈などは、わからない。

今日は、
月別で開催される、
ファンクラブ&御客様の誕生月限定という、
小ホールでの特別な開催であるが…。


そして、
次の瞬間、
陽音の心は、鷲掴みにされた。

後ろ姿から感じた、オーラだけではない…

女性の、
自分好みの顔立ち… 艶のある綺麗な長い髪…
気品溢れる姿…


洗練されたその雰囲気と
惹き付ける程のオーラが合わさり、陽音は、
心を奪われてしまった。

思わず、茫然と立ち尽くす…


異変に気付いたマネージャーが、
そっと促す。



陽音は、我に返り、
冷静に ピアノの前に座った。

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