ただひとりの運命の人は、私の兄でした

「久しぶりだね、光希。あおいちゃんも、元気にしていたかい」
元父親だった人は、にこやかな笑顔と共に現れた。
「父さん、急に来るから驚いたよ」
「お陰さまで元気にしています」
光希と私は玄関に二人並んで、行儀良く彼を迎え入れた。

「ああそんなにかしこまらないで。今日は急に悪かったね」
少し眉を下げて笑う顔が光希にそっくりだ。最後に会ったのはいつだったろうか、少し年を取ったなと率直に思った。
顔には笑いじわが、頭には白髪が増えた。しかしそれがマイナスになることはなく、ますますこの人をダンディに見せていた。
光希は完全に父親似だった。
すらりと伸びた背も、彫刻みたいに整った顔立ちも、陶器のように白い肌もすべて父親譲りだろう。
そして、何事も器用にこなしてしまうところも父親そっくりだ。
光希もだけれど、光希の父親もまた若いころに事業を起こして成功者となっていた。
当然モテまくって、恋の浮き名を随分流したらしい。そのあたりは光希は似て欲しくないと切に願っているけれど。
三度目の結婚でやっと落ち着いたのか、幸せな空気を彼はまとっていた。

「まあお茶でも飲んでゆっくりしてよ」
光希はリビングの方に父を招いたけれど、その表情にはどこか警戒している様子がうかがえた。
一体何が目的で来たのだろう。
モヤモヤするものを抱えながら、私もそのあとに続いた。

父はソファにゆったり腰を下ろし、美味しそうに光希の淹れたコーヒーをすする。
本当はこういうことも私が出来たらいいのだけど、何せ私が淹れたコーヒーよりも光希が淹れたほうが断然美味しい。
同じやり方でやっているはずなのにおかしい。
せめてお茶菓子くらいは優雅な動作で置きたいものだと父の前にお皿をしずしずと並べた。
目が合うと、にっこりと微笑まれた。光希にそっくりだ。光希が年を取ったらこうなるのだろうな、と容易く想像がつくくらいに。
「しばらく会わないうちに、すっかり綺麗になって」
「いえ、そんなことは……」
「そうでしょう父さん!あおいは僕の自慢の妹だよ」
光希は嬉しそうにそんな事を言ったが、私は背中が一瞬ヒヤリとした。
妹なんて嘘だ。本当は、赤の他人なのだ。それを光希が私の事を憐れんで、兄と妹という立場に甘んじていてくれているだけで。
きっと、父だってそれを快くは思っていないだろう。
「どれ、美味しそうなケーキを頂こうかな」
父はそれとなく話題を変えて、フォークに手を伸ばした。
これも光希が昨日手作りしたフルーツケーキだ。一晩経ってしっとりと味がなじみ、これ以上ないくらい美味しくなっているはず。
私も食べたいな、なんて呑気なことを考えていると、父が話の口火を切った。
「光希、最近どうだ」
「どうだって、……別に問題ないよ」
「結婚のことはどう考えているんだ」
思いがけないその一言に、部屋の空気は一気に張りつめた気がした。
光希は息を呑んで、一瞬言葉を失った。

ああ、とうとう来てしまった。

目をそらしていた現実を突きつけられて、息が苦しい。モラトリアムは近いうちに、確実に終焉を迎えようとしているのだ。

「結婚って、……何言ってるんだよ父さん。僕まだ26歳だよ?」
調子を取り戻したらしい光希は肩をすくめて笑って見せたけれど、父の表情が緩むことは無かった。
「結婚を考えている彼女はいるのか?」
「いや、今はいないけれど。そんなに急ぐ話でもないだろう?焦ってもいいことないし」
二人はにこやかに会話をしているけれど、ぴりぴりした空気が伝わってくる。それは鋭く肌を刺すようで、私はいたたまれなくなった。
「そうやっていつまでもふらふらしている訳にもいかないだろう。お前の事業の為にも、早く身を固めた方が良い。今日は見合い写真を持ってきたんだ」
そう言って父は紙袋からごそごそとアルバムらしきものを取りだした。

……お見合い。

足元ががらがらと崩れていくような感覚に襲われた。まるで光のない奈落の底に突き落とされた様な絶望を感じる。

「ちょっと、冗談でしょ!?僕は見合いなんてするつもりないから!」
「お前には出来るだけ良縁を結んで欲しいんだよ。父親の願いだ、分かってくれ」
「とにかく今は事業も拡大したいし、結婚とか考えている余裕は無いよ。伴侶は自分で見つけるつもりだ」
「そんな事を言っている間に、どんどん年を取っていくんだ」
二人の声には少しずつ苛立ちが含まれるようになっている。他人の私が口を挟むのもはばかられて、私はずっと黙っていた。
光希はこれからますます仕事で成功をおさめ、いずれお見合いでもして、結婚して、子供を作る。
そんな光希の明るい未来を想像しただけでみぞおちの辺りがずんと重くなった。
真実から逃げちゃ駄目だと思ったけれど、心が悲鳴を上げて頭がおかしくなりそうだ。
誰か助けてと本気で思ったのに現実は容赦なかった。父が突然声を掛けてきたのだ。
「あおいちゃんもそう思うだろう?光希だってもうそろそろ落ち着いた方が良いって」
なんて残酷な事を。
まるで心臓を一突きされたような衝撃が体を襲った。
「あおいちゃん、同じ女性としてこの人をどう思うかな?写真だけでも見てくれないか」
父は困った顔をしながら、私の目の前にお見合い写真をすっと差し出した。

いやだ。
こんなの、見たくない。

「父さん、あおいまで巻き込むなよ!!」
光希が声を荒げて制止しようとしたが、私はごくりと唾を飲んでからお見合い写真を受け取った。
私は光希の妹だ。どんな時も、正しく妹として振る舞わなくてはならない。
覚悟を決めてぱらりと開いてみれば、そこにはモデルみたいに美しい女性が佇んでいた。
色が白く、目がぱっちりと大きくて、髪の毛はきっちりとまとめられて清潔感に溢れている。
でも、どこか女性らしい甘さを漂わせている。まるでほわほわとした砂糖菓子みたいに可愛らしい雰囲気の人だった。
私とはまるで違う。
野生動物みたいに目が鋭くて、いかにも素行不良にしか見えない私とは、全然違う。
こんな美人が光希の隣に並んだら、どんなにお似合いだろう。
お互いを優しく見つめ合い、愛を育む。それは何て素敵な事なのだろう。

「どうかな、あおいちゃん」
期待に満ちた父の声に、私は顔を上げて答えた。私は、私に求められた役割を果たさなければならない。
「……とても素敵な方で、一瞬見惚れてしまいました。きっと、光希さんにはこういう女性はピッタリかと思います」
「そうだろう、そうだろう」
「やめろ!!」
光希が鋭い声で怒鳴ったので、私も父も驚いて言葉を失った。
部屋には痛いくらいの沈黙が訪れた。
「……どうも、今日は光希の機嫌が悪い様だな。また出直すよ」
これ以上の話し合いは良い結果をもたらさないと判断したのか、父は曖昧に笑って席を立った。
「あの、光希さん、何か今日は変ですね」
私は慌てて追いかけて、何とかフォローしようと言葉を募った。
玄関で靴を履いた父に追いつくと、光希はすっと紙袋を手渡した。
「これ、持って帰って。僕には必要ないものだから。見合いなんてしないよ」
ぞっとするような冷たい声で光希がそう言い放つと、父も渋々それを受け取ってその場をあとにした。
父がいなくなると、光希はいつものように柔らかい笑顔を私に向けてくれた。
「ごめんね、あおい。突然来たかと思ったらあんなこと言って。全く困ったものだね」
わざとらしいくらいに明るく振る舞う光希の姿に、申し訳なさしか感じなくて思わず目を伏せた。
きっと、父だって心配しているのだ。
こんな好条件の息子がいつまでも赤の他人の面倒を見ることにかまけて、自分のことがおろそかになっていやしないかと。
自分が何度も結婚に失敗しているから、余計に気になるのかもしれない。
それに、前の嫁の連れ子の世話を自分の息子がしているなんて、やっぱり気持ち良くはないことだろう。はっきり言えば、私たちの関係は異常なのだ。

……私が危惧していたことがむくむくとその姿を現してきた気がする。
『お前がいなければ、光希はもっと自由にその手に幸せを掴むことが出来る』
頭のどこかから、そんな声が響いている。光希を開放してあげる日は、きっともうすぐだ。
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