ただひとりの運命の人は、私の兄でした
光希は駐車場に車を滑り込ませ、静かに停車させる。
車の運転まで完璧。そりゃあ女は誰でもころっと光希にオチるだろう。
このマンションは地下駐車場から高層階フロアへの直通専用エレベータが設置されていて、居住者以外に顔を合わせる事は殆んど無い。
セキュリティ対策も万全で、エントランスとエレベーターでいちいち解錠を要求をされる構造になっている。
鍵はかざすだけで解錠できるノンタッチキーなので、ピッキング対策も万全。
「大切な妹を預かるんだからしっかり安全対策しないとね。まだ心配なくらいだけど」
このマンションの購入を決めた時、光希は難しい顔でそんなことをのたまったけれど、私はさすがに苦笑してしまった。
こんな、私みたいな、何の面白味も無く、可愛くも無い娘を、一体誰がどうしようと言うのだろうか。
「光希、心配しすぎ。誰も私に手を出すやつなんていない」
「……君は何にも分かってないな」
腕を組んでため息を吐く光希の姿はただの心配性な兄にしか見えなかった。

大丈夫だって。それに、……私はむしろあなたに手を出されたい。

心の中でそんな風に思ってみるけれど、その声が光希に届くことは一生無いのだろう。ごめんね光希。よこしまな妹を許してね。


厳重なセキュリティをくぐって高層階の自宅のドアを開けると、何とも良い匂いが鼻孔をくすぐった。
「光希、すごくいいにおいする。お腹すいちゃう」
「そうでしょう?待っててね、最後の仕上げをするから」
目を細めて光希は幸せそうな顔をした。私はこっくりと頷くと、着替える為に自室に向かった。

以前、誕生日プレゼントは何がいいか、と光希に聞かれた。
欲しいのはあなた、なんて歌を昔母が口ずさんでいたっけ。バカな考えに一人おかしくなる。
何も答えない私を不思議に思ったのか、こてんと首を傾げる光希が何だか可愛かった。
こうやって、私の答を辛抱強く待ってくれる優しさは昔から変わらない。
「なあに?遠慮しなくていいんだよ。大抵の欲しいものは買ってあげられると思うよ?」
「……りょうり」
「へ?」
「光希の、手作り料理が食べたい。うんと手の込んだやつ」
私がそう言うと、光希は目をぱちぱちと瞬かせた。
「そ、そんなんでいいの……?だって、普段だって僕の料理なんて食べてるじゃないか」
「それがいいの。光希の料理が一番のプレゼントだよ」
「うーん……あおいがそう言うなら」
あまり納得のいかない顔だったけれど、光希は了承してくれた。

本当は光希が欲しい。喉から手が出るほどに。
でも、そんなの無理だって分かっている。だからいいんだ。
叶うなら、私のためにほんの少し時間をかけて、料理をしてほしい。それが私の体の中にとりこまれ、私の一部となる。それだけで、すごく幸せ。なんて、ちょっと病んでるよなぁなんて自分でも自覚はあるけれど。

デニムとTシャツに着替えてリビングに行くと、既に光希はエプロンを身につけてキッチンに立っていた。鼻歌を歌って、とても楽しそうだ。

ねぇ、もう少しだけ近づいても、いいよね。
だって今日は私の誕生日だもん。どうか光希、お願い。

オーブンを覗き込む光希の後ろにゆっくりと近づいて行って、私はその背中にとんと額をぶつけた。その瞬間、光希の体温と愛用しているムスクの甘さ、それに隠れて光希自身の香りが私の脳天を突きぬけた。
まるで媚薬みたいだ。一気に私の頭はくらくらして、真っ白になる。

好き。大好き、光希。言えないけど、小さい頃からずっと好きだよ。

「僕の妹がこんなに可愛い」
最近は滅多に甘えない私が自分から近づいてきたのが嬉しかったのだろうか、光希は幸せそうな声で呟いた。

……嫌がられては、いないみたいだ。
もし光希から離れてよ、なんて言われて顔をしかめられたら、もう生きていけないところだった。
光希の穏やかな声は、私の身体を芯から温めていく。そして、私はもう少しだけ勇気を振り絞ることにした。

ごめんね、光希。本当に、今日だけだから。

心臓はどくんどくんとあり得ないくらい早鐘を打っている。
自分の顔も耳も、すべてが熱くなっていくのが分かった。

震えそうになる手をなんとか鎮めて、私は光希の背後から腰回りに手を回してみた。

「ふふ、どうしたの。今日はずいぶん甘えん坊だね」

光希は私の手に、自らの手を重ねてくれた。

心臓がびくんと撥ねた気がした。

光希のあの白くて大きくて美しい手が、私の手を覆っているのだ。
そのまま私の手を柔らかく撫でてくれて、思わず変な声が出そうになった。
やだ、どうしよう。
こんなに光希と密着したのなんて、いったいいつぶりだろう。
顔の温度はどんどん上昇していく。
私の気持ちが指先から漏れて、うっかり光希に伝わってしまわなければいいのだけど。

これ以上くっついていたら、変に思われてしまうかもしれない。
というか、正直に言えば、私の心臓がもたない。
平常心を装いながら、私は必死で言葉を紡いだ。

「……今日は私の為にありがと、光希。本当はすごく嬉しかった」
「あおいに喜んで貰えて良かった。ほら、高校生の君から見たら僕なんておじさんだろ?だから、僕と一緒に過ごすなんて嫌かなぁなんて……」
「おじさんなんかじゃない!!」

私は額を背中にこすりつけたまま、大きな声で叫んだ。
光希は驚いたのだろうか、ぴくりと身体を動かして言葉を詰まらせた。

「だって、……今日だって、光希はみんなの羨望の的だった。光希みたいに完璧な人なんて他にいないよ?最高の中の最高だよ」
光希は私の自慢だ。それは出会った時からずっとそうだ。こんな美しい男性を、誰がおじさんなどと思うものか。

それが伝わるように、私は心をこめて言葉を選んだつもりだ。
でも光希が何も言わないので、私はおそるおそる手を離して光希の顔を覗き込んだ。

すると目に飛び込んできたのは、真っ赤になって口をつぐむ光希の姿。
あまりに意外なその光景に、私は口をぽかんと開けそうになった。

「あの、ごめん。私、何か困らせちゃったかな……」
「いや違うよ、そうじゃなくて!!……本当に、嬉しかったんだ……君に、そう言ってもらえて」
「光希……」
恥ずかしそうに頭をかしかしと掻く姿を見ながら、私は先ほどの自分の言葉を反芻する。
もしかして、告白すれすれの事を口にしてしまったのではないだろうか。

やばい。

羞恥心に襲われて、私までみるみる赤くなっていた。

「あのっ、忘れて!その、変な事言っちゃって、ごめん!!」
慌てて取り繕うようにそう叫んだけれど、光希は急に真剣な表情になってゆるゆると首を振った。
「……僕は、忘れないよ。ありがとう、あおい」
「えっ……」
「さ、食事の用意を続けようかな。さあ、どいてどいて!」
光希の言葉の真意が分からなくて混乱している間に、光希は忙しそうに動き始めてしまった。

……どういう意味なんだろう。

聞きたかったけれど、聞けなかった。
光希と私の距離は、近い様でとても遠いのだ。


光希が用意してくれたディナーは素晴らしかった。

鯛のカルパッチョは、オリーブオイルがかかった薄切りの身に、ハーブと粒こしょうのアクセントが効いていて、見た目にもとても綺麗。
オニオングラタンスープは、丁寧に炒められたあめ色の玉ねぎが本当に美味しい。スープにはバゲットとグリュイエールチーズがとろけていて、思わず私の舌までとろけてしまいそう。
鶏肉のパイ包み焼きは鶏肉がしっとりジューシーに焼きあがっているし、魚介類がたっぷり入ったパエリアは、なべ底にはりついたおこげまで美味しかった。

私は今日だけは体重管理も忘れてひたすらに食べまくった。そんなアホみたいな私を、光希はにこにこと楽しそうに微笑んで眺め続けていた。

「あおいの食べっぷり、ほんと見ていて気持ち良い」
「今日だけだもん」

こんな風に誕生日を祝ってもらえるのは今年で終わりだ。勿体ないから全部しっかり食べるよ。
……誰にも言っていないけれど、来年には私はここを出ていくつもり。

「あおいは大学に進む予定なの?」
「うん。一応、文系で考えてる。お母さんにも相談済み」
「そっか、応援しているよ。ここから通える大学なら、たくさんあるからさ。それに、学費だって僕がもつよ」
「いや、あの、そこはお母さんが出してくれるっていうから……」
「なに遠慮してるの。お兄ちゃんに頼りなさい」

屈託なく笑う表情に、胸がずきりと痛む。

光希は私がずっとここに住む前提で未来の話をしている。私だってそうできたらどんなに幸せだろうと思うけれど。最近、実は幸せなのと同時に同じくらい恐くなる。

私がこうやって同居していることで、光希の年齢なりの幸せを奪ってしまっているんじゃないだろうか。
光希にはちゃんとお付き合いしている女性がいる。その時々で相手は変わっているようだけど。
光希は決して外泊したりしない。私が心配だから、だそうだ。そんなに子供じゃないとは私が主張しても、私を子供扱いして全く聞いてくれない。どんな彼女よりも、私を優先する。
以前、私が腹痛で苦しんでいる時に、彼女の誕生日パーティーをすっぽかして帰宅してきたこともある。
「ちょっ、……私なら大丈夫だって言ったじゃない。彼女のところに戻ってよ」
「やめてくれ。君を放っておいてそんなことできるわけない」
光希は不快そうに顔をしかめて私の意見を拒絶した。そして甲斐甲斐しく私の面倒を見てくれた。彼女より私を大事にしてくれたことは、正直に言えば嬉しかった。でもそれ以上に得体のしれない不安や恐怖に苛まれた。

光希の年齢なら、早い人ならちらほらと結婚しているのではないだろうか。
私がいることで、光希はそのタイミングを逃してしまっているとしたら?
私は、自分がお荷物になってしまっているのではないかと思うと、たまにその罪深さに恐くなる。
今だって甘えっぱなしなのに、これがあと大学4年間も続いていくなんて想像すると、背中がひやりとする。
見目麗しく、頭脳明晰、おまけに社会的に成功している兄の未来への可能性を奪っている私。
誰が見てもそう思うに違いない。
完全に厄介者だ。
だから、私は高校を卒業するタイミングで、ここを出て行こうと思う。
そしてその時に、私の恋心も永遠に葬り去るのだ。
光希が好きだ好きだと泣きわめく私自身をめった刺しにして、心の奥底に葬り去るつもりだ。
それまでの僅かな間のモラトリアム。
神様、タイムリミットまで、光希を少しだけ私に貸して下さい。

「ありがとうね、光希」
「どういたしまして。素敵な一年になりますように」

光希はワインの入ったグラスを、私はジュースの入ったグラスをかちんと合わせた。
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