ただひとりの運命の人は、私の兄でした
あれは私が高校一年生の頃だった。
知らぬ間に、同級生のある男の子に私は目をつけられていたらしい。
彼は随分派手な外見の男の子だったけれど、凄くモテることで有名らしかった。
格好良いと同級生に騒がれているのも知っていたけれど、私にとって史上最高の男は光希なので、私は彼を目の前にしても特に何も感じていなかった。

私はその日、いつものように学校からいそいそと帰っているところだった。
今日は光希が定時に上がる筈だから、早く会いたいなんて呑気に考えていた。
そして手作りの料理をおなかいっぱい食べるつもりだった。光希の笑顔を想像したら、勝手に顔はだらしなく緩んだ。
マンションのエントランスが見えてきて更に足を速めようとしたところで、突然背後から肩を掴まれて声を掛けてられた。
「よう、お前の家ってここなの?」
私はびっくりして心臓が止まりそうになった。おそるおそる振り向いて見れば、あの派手な男の子だった。
「いいとこ住んでんじゃん」
私が黙っているのを良い事に、彼は馴れ馴れしく耳元で囁いてきた。
瞬時に私の全身にぞわわわと悪寒が走った。
どうしてなのか分からないが、私は光希以外の男に触られると全身が拒否反応を示すのだ。
「な、なにか用なの……」
私がひきつりながら何とか答えると、彼は下卑た笑いを浮かべた。
「お前ってすげぇ高級マンションに住んでるのな。……もしかして、ここ、パパの家?」
うっそりと細められた目に吐き気すらこみあげてきた。
何でこんな奴に、そんな失礼な疑いを掛けられなければいけないのか。光希と私の、大切な家を。安らぎと優しさに溢れた、私のお城に向かって何という事を。
あまり感情の起伏がないと言われている私でも、さすがに腹の底から怒りが沸いてきた。
「……そんなわけないでしょう。れっきとした私の家だよ。悪いけど、急いでるから」
肩に掛けられた手を振り払ってそう言い放ち、私は家路を急ごうとした。
心臓が変な風にばくんばくんと鼓動を打ち、全身からどっと冷や汗が吹きだした。

こわい。なに、この人。

足がもつれそうになるが、私は必死で平静を装った。
それなのに、その男は私を背後から抱きしめてきたのだ。
「ひっ……!!」
「逃げんなよ。なあ、お前、処女じゃないんだろ?家に上げてくれよ。じゃなかったらホテルいこ?前からさ、お前のこといいなって思ってたんだ。でも学校じゃお前つれないし。わざわざ追いかけて来てやったんだから感謝しろよ」
全身に鳥肌が立ち、指先が一気に冷たくなっていくのが分かった。

何なのこの人。頭、おかしいんじゃないの。
ここまで最低な事を言われたのは生まれて初めてで、私は屈辱感に打ちのめされた。

「なっ、なにを、言ってるの……ばかじゃ、ない、の……」
怒りと気持ち悪さから視界が滲み、情けない程に声は震えた。

早く、早くうちに帰らないと。あそこに帰れば大丈夫。光希がいるもん。私を絶対的な安心感で包んでくれる光希が。

「エンコーしてんだろ?お前。タダじゃ嫌だって訳?」
驚きと苛立ちを含んだ声が聞こえてきて、私はカッと頭が熱くなるのを感じた。
「そんなもの、してない!!も、はなして、よ……!!」
私がやっとのことで彼の腕を振り払ったけれど、髪を思い切り掴まれた。
「いった……!!」
「調子に乗んなよ、遊んでるくせに!」
怯えつつも見上げれば、彼からさも憎々しげな目を向けられ、私は絶句した。

いやだ。なんでこんな目に遭わなきゃならないの。
私が何をしたというの。

「……勿体つけんなって」

髪を握られながらそう耳元でねっとりと囁かれた時だった。

「……僕のあおいに、一体何をしてるの?」
腹の底まで冷やすような恐ろしい声に、その男の子は身体をぎくりと硬直させて、言葉を失った。
声の聞こえてくる方を見やれば、そこには光希が立っていた。

「み、つき……」
安堵の涙がぶわりと溢れだした。髪の毛を掴んでいた手が緩んだので、その隙にもつれるようにして光希の元に走り寄った。
光希は手を広げて私を抱え込んでくれた。
間近に感じる、光希の優しい香りと体温。
私は胸が一気に熱くなり、震える手で必死に光希に縋った。
大きな手が、私の頭を何度も撫でてくれた。それだけで、目が壊れたみたいに涙が止まらなくなった。
私の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったと思う。

「……僕の妹は嫌がっているように見えたけれど。君、女の子の髪を引っ張るなんて最低だよ?」
口調は穏やかだが光希の声色は恐ろしく、彼はみるみる顔色を失っていった。
「そ、そいつが……!俺の事を誘ってきたんだっ、だからっ、」
苦し紛れなのかそんなことを言い始めた彼を見て、光希は思い切り呆れたように笑った。
その後、私の背中をとんとんと叩いて「ちょっと待っていて」と言った後にかつかつと彼の元に近づいて行った。
私が驚いているうちに光希は彼の襟元を掴み、思い切り締め上げた。
「っ、……やめ、ろっ……」
「二度とうちの妹に手を出すな」
「光希、やめて……」
私が慌てて近寄ろうとした時、光希は彼の耳元で何かを囁き、襟元から手を離した。
すると彼は真っ青な顔をして、転げるようにその場から逃げて行ったのだ。
「……光希、何を言ったの……!?」
「別に。ごく常識的なことだよ」
光希は先ほどとは別人のように穏やかな表情になって、私に傍に戻って来てくれた。
「恐かっただろう、あおい。もう大丈夫だよ。何かあったら、また僕に言うんだよ?」
耳に優しく響く、低くて甘い声。私の緊張の糸がぷつりと切れた。
「うっ、……みつ、きぃ……」
「可哀想に、あおい。あおいは何も悪くないのに……」
そう言ってそっと抱きしめられるともうダメだった。堰を切ったかのように涙が溢れだし、私は光希に縋ってわんわん泣いた。
光希は私が落ち着くまで、ずっと何も言わずに寄り添っていてくれた。

光希は、まるでピンチに陥った姫君を助けに来た王子様みたいだった。
心がきゅんきゅんするのが止まらなくて、もう苦しいくらいだったことを覚えている。
「みつきかっこいー、だいすき!!」と私の中の恋心が大歓声を上げていて、もう黙ってくれやしなかった。

光希は、予定していたよりも遅い私の帰りを心配して、マンションから出てきたところだったと言う。
そこで私が同級生に絡まれているのを見て、急いで飛んできたのだそうだ。
「あおい、少しは落ち着いた?」
部屋に帰って私をソファに座らせると、光希はホットミルクを用意してくれた。
ラムの香りがほんのり香るそれは、一口含むと心の緊張をほっと溶かしていってくれた。
「うん、もう大丈夫……」
「今日の件は、学校に相談した方がいいかもしれない」
「あのっ、おおごとにはしなくていいから……光希がいれば、私は平気だから」
「……そうは言っても心配だな。あの子、許せないよ」
「なんかさ、私の見た目が良くないみたいで。ほら、地黒で髪も茶色いでしょう?だから遊んでるように見えちゃうんだ」
「何を言っているんだ!!」
光希が珍しく声を荒げたので、私はかなり驚いて言葉を失った。
「君はっ、……君ほど綺麗な子なんて他にいないよ?君は何も分かっていないんだ。どんなに自分が魅力的なのかを」
「えっ……」
弾かれたように顔を上げると、光希自身も自分の言葉に驚いた様ではっとした顔をしていた。
「……ごめん、とにかく今回の件は学校に言わないとしてもだ。またこういうことがあったら僕に相談するんだよ?」
「うん、分かった……」
光希は自らの額に手を当てると、深いため息を吐いていた。
余計な面倒を掛けさせてしまったかもしれないと罪悪感に胸が痛んだけれど、私は先ほどの言葉を思い出してドキドキしていた。

“君ほど綺麗な子はいないよ”

……傷ついた私を気遣って言ってくれたのかもしれない。光希の優しさのひとひらなのかもしれない。
それでも、私は嬉しくて仕方なかった。
光希がそう言ってくれるならば、私もそこまで捨てたものじゃないのかもしれない、なんて少し自信を持ったりした。

しかしその日から、光希は私に対してそれまで以上に過保護になった気がする。
アルバイトは全面禁止になった。帰りが遅くなると心配だし、今は勉学に集中して欲しいそうだ。
お小遣いは月に6万円も貰う事になった。
「ちょっと、こんなのいらない。お母さんからもお小遣い貰ってるから!」
「受け取ってくれ。僕が君の行動に制限をかけてるんだから、こんなの当たり前だろう」
光希は当然のような顔で、私にぽんと大金を渡す。
何を言っても口で光希に勝てる気がしない。渋々私が受け取ると、光希は満足そうな笑顔を浮かべた。

でも、そのお小遣いには殆んど手を付けていない。ずっと貯めておいてある。
学校に必要なものを買いたい時は、母からのお小遣いで足りる。たまに私が出かけてると行っても、相手は絹しかいないしかかるお金なんてたかが知れている。
洋服やアクセサリーは光希が私と一緒に出かけて買いたがるので、服飾費もかからない。
だから、光希からのお小遣いは毎月貯まる一方だ。私の勉強机の鍵が掛かる引き出しに保管しているけれど。
このマンションを出ていく時に、全部光希に返すつもりだ。
それがせめて、私は光希の負担になっていなかったと証明するひとつの手段であると思いたい。


私に“学校が楽しいか”と定期的に聞いてくるのも、光希の過保護の一端だ。
まあ確かに光希が心配になるほど、私は様々なことを経験しているし、光希もそれを見てきた。
「学校、楽しいよ。何も困っていないし」
「そう、なら良かった」
私に絡んできたあの子は、あの日以来とても大人しくなってしまって、今では派手だった片鱗も見えないくらいだ。
私と目を合わせるとぎくりと身体を硬直させ、こそこそと逃げていく。
あの時、光希は一体彼に何を言ったのだろう。
私には到底計りしれないけれど、光希はただの優しいだけの男ではないというのは確かだ。

「お友達は、増えた?」
優雅な動作で箸を口に運びながら、光忠は穏やかに私に問いかける。
「ううん、相変わらず絹だけ。でもそれでいいと思ってる。そうだ、今度グループデートしようとか言われて、」
私がそこまで言うと、ガタタっと音を立てて光希がテーブルに身を乗り出してきた。
「あおい、……行くの?」
光希は驚愕の表情を浮かべていた。もしかして男にがっついてると思われてしまったのだろうか。
私、男に飢えてるみたいだろうか。どうしよう。気恥ずかしくなって私は慌てて弁解をし始めた。
「あの、なんかさ、私を気に入ってくれてる人がいるみたいで。あ、ホントかどうか分からないよ!?絹が気を使ってくれてるだけかもしれない。でも、そういうのもたまにはいいかなって」
私は何を言っているんだ。顔がどんどん火照っていくのを感じる。下手な言い訳を重ねれば重ねるほど訳が分からなくなり、光希にどう思われているかが気になって仕方なかった。
「そうか……あおいも、そういう年頃かぁ。彼氏とデートしたりしたいよね」
光希のひとことに胸がずきんと痛んだ。
「あおいがイヤイヤ行くなら心配だったけど、前向きに考えているならいいと思う。楽しんでおいで」
完璧な笑顔を見せられれば、私は息が止まりそうになった。

……何を期待していたんだろう。もしかして光希が行くなとでも言ってくれると思っていたのだろうか。現実はなかなか厳しいな。これじゃあ、むしろ彼氏を作って来いと言われてしまったようなものだ。

自分の馬鹿さ加減に自嘲的な笑いがこみ上げてきた。ああ、どこまでも私は一人で空回っている。

「……うん。そうだね……」
「ただし、困った事や嫌な事があったらすぐに僕に言うんだよ。分かったね?」

光希はどんな時も完璧な私の保護者だ。そして、保護者として私を溺愛してくれている。彼の溢れんばかりの愛情は、私を喜ばせもし、苦しませもする。
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