アレキサンドライトの姫君
第五章 お妃教育

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エーデルがお妃教育を受けるようになって数日が過ぎた。

ミーナから聞いていたイルザ女官長の印象があまりにも強烈だったため初対面の際には身構えていたエーデルだったが、思わず唖然としてしまうほどイルザ女官長はエーデルに対して恭しく接してくれていた。
それは、エーデルが自分よりも上の地位にいると判断してのそれなのか、それとも彼女なりに何か思うところがあるのか…その心中を察することはできないが、とりあえずエーデルは先入観を振り払いながら、自分に課せられた務めを果たそうと懸命にイルザ女官長の教育を受けていた。

「…それでは、本日の講義はここまでと致しましょう」

教本をぱたんと閉じてイルザ女官長は立ち上がる。
母親というほど歳は離れていない印象だが、少し歳の離れた姉というには歳の差があるような、玲瓏な青い瞳と赤い唇が印象的な知的な雰囲気を纏った大人の女性だ。

「ありがとうございました」
「エーデルシュタイン様は大変造詣が深く理解力も高いので、お教えするのが楽ですわ」

いつもそう褒めてはくれるものの、彼女の態度はあくまで事務的である。
媚び諂うような言動は全く無く、それどころか息抜きの雑談をすることもなければ、その日の天気を言うようなそんな些細な時候の挨拶もなく、私語は皆無。

「それでは失礼致します。また、明日に」

講義の最中は集中していることもありさほど気になったりはしないのだが、こうして彼女が務めを終えて退室していった途端、緊張の糸が途切れたように疲労感がどっと全身に圧し掛かる。

「ディルク様にお会いしたい…」

一人きりの部屋の中で、エーデルはぽつりと呟いた。
あのヴェルホルトとの一件の日以来、ディルクは公務が忙しいらしく全く顔を合わせていなかった。
ヴェルホルトがここを訪れることも無く、ここに来るのはミーナとイルザ女官長くらいで、この数日間はその二人としか顔を合わせていない。
エーデルは一日中この与えられた部屋から出ること無く過ごしている。
それを強制されているわけではないのだが別段室外に用事もない。
この部屋には浴室や化粧室が備え付けられており、部屋から出ずとも何の不自由も無く生活することができる。
ディルクと時間が合えば食堂へ移動して一緒に食事をするのだが、それも出来ないここ数日はずっとこの部屋へと食事が運ばれ一人で摂っている。
些細な楽しみといえば、天気の良い午後の空き時間にバルコニーへ出て広大で美しい庭園を眺めながらお茶をすることくらいなのだ。傍らで給仕してくれるミーナとお喋りに花を咲かせながら。
この宮殿の裏手に王立図書館があるらしく、本の好きなエーデルは一度そこへ行ってみたいとミーナに訴えてみたが「ディルク殿下の許可がありませんと…」と言われてしまい未だ行けず仕舞いだった。
また今夜も一人で夕食を摂るのだろうか…寂しげに窓の外へと目を遣ると、宵闇が景色を包み込んでいた。
陽が落ちると途端に冷え込む今日この頃。
エーデルは毛皮(セーブル)の肩掛けを羽織るとバルコニーへと繋がる硝子戸を押し開けた。
冬の足音が聞こえてきそうなど、皮膚に突き刺さるような冷たさの空気がエーデルに襲い掛かり身震いしながら毛皮を襟元に掻き寄せてバルコニーの手摺に手をかけた。
本来貴族の娘が広いバルコニーの手摺にまで歩み寄るのは無作法とされる。
『深窓の』という形容詞が似合うように、貴族の娘は簡単に姿を現してはいけないのだ。
テーブルと椅子は広いバルコニーの部屋側に配されているため庭園からは死角となり見えないが、こうして手摺に身を乗り出せば容易に視野に入ってしまう。
はしたないことだと自覚しているが、今は夜の帳が下りその闇がエーデルを包み込んでいるからその心配も無くこうしているわけではあるが…。
あまりの寒さにエーデルは踵を返そうとした刹那、背後から回されてきた逞しい腕に抱き締められた。

「ディルク様…っ」
「何をしている。風邪を引いてしまうぞ?」

ずっと会いたかったこの温もり、この香り…。

「このように手が冷たくなって」

手を握られたかと思った次の瞬間にはふわりと身体が抱き上げられた。

「ディルク様…、何を…っ」

身動いでもびくともしない腕にしっかりと抱かれ、大理石の床に音を立てて靴が落ちる。
ディルクはエーデルを胸に抱いたまま硝子戸を閉めると、暖炉の炎に暖められた室内の寝台へと歩み寄り無言のままそこへ身体を横たえた。
豪華な天蓋を支える4本の柱には繊細な花模様の彫刻が施されており、そこにはシャンパンゴールド色のベルベットの緞帳がタッセルで括り付けられている。
既に見慣れたはずのそんな細工に視線を向けてしまうほど何故か動揺している。ディルクの瞳を…その色の違う綺麗な双眸をまっすぐ見ることができないほど。
蕩けるような絹の質感の寝台が二人分の重みに身体が沈む。

「エーデル…」

頬に手が這わされ、真上から覗き込まれるように眼差しが注がれる。

「なかなか時間が作れず、貴女には寂しい思いをさせたな」
「…はい」

いいえと首を振るのも何か違う気がした。だから素直に頷く。ずっと会いたかったから。

「気が気ではなかった。こうしている間にも誰かが貴女に触れたら…と考えると」
「そのようなこと、絶対にありませんから」
「貴女は、人の心を惑わせ過ぎる」

自信ありげに言い切って見つめた彼の瞳は切なげに揺れている。

「先日二人で国王へ挨拶に行った際、同席していた男たちを覚えているか? 我が国が誇る陸・海軍の両総司令官と騎士団だ」

記憶を辿るとそんな人影があったのはなんとなく覚えている。
しかしその一人一人の姿形までは覚えていない。
ただ、提督の階級章が輝く藍色の軍服を身に纏った若い男性のことは覚えている。国王の御前だというのに、手の甲へ口付けられそうになったから。
ディルクが断りその場を丸く収めたものの俄かに騒ついたあの妙な雰囲気は居心地が悪かった。
その司令官たちと騎士団がどうかしたのだろうか。
首を傾げながら次の言葉を待っていると、急に脈略のない科白が紡がれた。

「明後日の夜、この王宮で舞踏会が催される。表向きは国王主催の夜会だが、その夜会の真の意味は貴女と私の婚約披露だ」
「婚約披露…ですか」
「周知させてやる。貴女は誰のものなのか」

怒りにも似た口調で呟いたディルクの頬にエーデルは手を這わせた。

「ディルク様…何故そのように焦っておいでなのですか? 私は貴女のものですのに…」

どうして分かっていただけないのか、どうしたら安心してもらえるのか…そう思ったら自然に手が頬へと伸びていた。

「そう言うなら、エーデル。私は、もっと深く、確かな貴女との繋がりが欲しい」
「え?」

ディルクの頬へ宛てた掌を強く握られ、寝台に押し付けられるように手を固定された。

「貴女を完全に私のものにしてしまいたい」
「ま…っ、待ってください!」

組み敷かれながらも、エーデルは開いたもう片方の手でディルクの胸を押し返した。ディルクの言葉の意味が理解できるから。
女の力ではびくともしない身体に絶望にも似た感情を抱きながら、それでもエーデルは懇願するように言う。

「婚礼前に…このようなこと…。私は、穢れなき清らかな身で嫁ぐようにと、幼いころから母や乳母に厳しく言われて育ちました。その教えに背くような真似は…っ」

視界が涙で滲む。それがどんな理由で溢れたのか、自分でも訳が分からず混乱する。
婚礼後の初夜にこそ夫となった男性に純潔を捧げるものだ、と。半ば洗脳されるように言われて育ったエーデルにはこの状況は理解の範疇を超えていて、涙が溢れて止まらない。

「すまない」

謝罪の言葉が呟かれ、頬を伝う涙が指先で受け止められた。

「貴女の母君は素晴らしい教えを説いてこられた。その教えがあったからこそ、貴女が純潔を守ってきたことに感謝をしなくてはならない」
「ディルク様…」
「もし貴女の身体が既に他の男を知っていたなら、私は嫉妬で狂ってしまっていただろうな」

冗談とも本気ともとれるような複雑な表情で自嘲するように言いながら、エーデルの涙を拭う。

「アレキサンドライトの瞳から零れる涙はダイヤか。……美しいな」

ディルクが気持ちを分かってくれたのだとほっとして、胸をなで下ろして身を起こそうとすると、エーデルの肩が再び寝台へ押し付けられた。

「え…?」
「貴女の母君の教えには感服するが、訂正すべき点もある」
「な…何を…でしょう…?」
「婚姻の約束を結んだ者同士ならば、婚礼前に事に及んでもそれは穢れたことにはならない。多少順序が前後するというだけのことだ」
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