あなたしか見えないわけじゃない
異動までの1ヶ月はあっという間だった。

空いている時間は勉強に励んだ。
彼も学会発表前でデスクに向かっている時間が長かったから、私も黙って水槽の前のソファーに座り専門書をめくってひたすら知識を詰め込んだ。


異動の1週間前になり病棟の送別会を開いてもらった。
納涼祭と同じでまた心外とCCUとの合同で異動人数も多く中華街の有名なお店を貸し切りにした大掛かりな送別会になった。

るー君は学会発表前の論文の事で大学の教授に呼ばれたため欠席だった。

私はまた杉山部長の隣にいる。
一通りお酌をしながら挨拶回りを済ませて杉山部長の隣という定位置で落ち着いた。

「志織ちゃん、飲んで、飲んで」

高級な老酒を頼んでくれたけど、これ、一体1本いくらするんだろう?

「有難くご馳走になっておけば。他の異動になる今日の主賓たちにも杉山部長から高級なお酒が特別提供されてるみたいだから」
石田先生にも勧められて「じゃあ」と有難くいただく。

「うわっ。美味しい!」
濃厚な香りと深みのある味わい。
何これ、美味しい!
杉山部長と乾杯を繰り返しごくごくと飲み干す。


「アンタ、何で杉山部長の老酒独り占めにしてんのよ」

大酒飲みの木村さんが私たちの席にやって来た。

「わぁー。木村さんだ。私、木村さんと離れるの淋しいです」

そう言ってハグしようとする私の顔を押し退ける。

「ちょっと、やだ。アンタお酒強いのにずいぶん酔ってるじゃないの。やめなさいって」

「えーん、ひどぉい」

「杉山部長!何でこんなに飲ませちゃったんですか!」

あ、杉山部長が怒られてるみたい。すごい、杉山部長を怒れる人がいるとは。杉山部長は怒る側の人だから。
あー、なんだかふわふわする。

「だって、志織ちゃんがいなくなっちゃうんだよ。異動決めた看護部長に抗議したんだけどさぁー。取り消ししてくれないんだぁ」

「えー、杉山ぶちょーが看護部長に言ってくれたんですかぁ」

淋しいよ、淋しいですよぉと2人で言い合って手を握り合う。

「ちょっと!スー先生はどこ?あ!今日は欠席か。じゃ、早川!早川はどこっ!」

木村さんが叫んでいる。

早川は別のテーブルですでに杏露酒ソーダの飲みすぎで酔っていた。

「もうっ!」

「木村さぁん、一緒に飲みましょうよぉ」

「そうだ、木村さん一緒に飲もう、飲もう。ツバメの巣も頼んじゃうかぁ」

「そうだ、そうだ。たのもうー」
わーわーと同じく酔った杉山部長と盛り上がる。

「アンタ達みたいな酔っ払いにはこんな高級な老酒あげないし。ツバメの巣も頼まないからっ」

ツバメの巣は却下され老酒は取り上げられてしまった。
ううっ。

「石田先生、杉山部長を責任持って連れて帰って下さいね!」

「は、はいっ」

木村さんの迫力に石田先生が固まる。

「この小娘はどうしてくれよう」

「小娘って私ですかぁ」きゃっきゃっと笑うとデコピンされた。

「痛ーい。鬼。おにだー」

「うるさい、小娘。あ、ああ。そうか、その手があった」
そう言ってどこかに行ってしまった。

「ぶちょー、木村さんがいなくなっちゃいました。淋しいですぅ」

「ボクは志織ちゃんがいなくなっちゃうのが淋しいよぉ」
杉山部長が両手で私の右手を握った。

「はい、はい。私も淋しいですよぉ」と杉山部長の可愛い仕草に頭を撫でようと手を伸ばす。

「はい、そこまで」
私の左手は誰かの大きな手につかまれた。

「洋兄ちゃん」

私の横にちょっと怖い顔をした洋兄ちゃんがいた。

「志織、飲みすぎ」
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