魅惑への助走
 「上杉くん……?」


 「お帰り、明美」


 居間に入ると、上杉くんはバッグに荷物を詰めていた。


 「それは、」


 「学生時代の友達にお願いして、しばらく居候させてもらうことになった」


 「え?」


 「そいつ、ボロいけど一軒家に住んでいて、二階部分が丸ごと空いているっていうんだ。そこに当面は厄介になることで話がついたんだ」


 「そんな急に」


 「善は急げ、ってことで。荷物も少ないし、準備にもそんな時間がかからなかったしね」


 衣類をバッグに詰めながら、私のほうを見ないままで上杉くんは答える。


 「まさか、今日これから出て行くの?」


 「……もう一緒にはいられないんだし、一刻も早く離れたほうがいいよね。これ以上俺、明美を嫌いになりたくないし」


 「上杉くん」


 「今ならまだ、明美は俺の中に大切な思い出として残しておけそうなんだ。明美は俺にとって……初めての人だし」


 「……」


 「今までずっとありがとう。好きだったよ。ここを去るのも明美が嫌いになったわけじゃない。これからの二人のことを考えて、だ。このまま二人ともだめになって、いずれ憎み合って別れるくらいならば。今のうちにこうして身を引けば、いつまでも思い出は綺麗なままだ」


 私は何も答えることができず、俯いたまま黙ってしまった。
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