じいちゃんのハンバーグカレー
俺は、母ちゃんの手を振り払った。
「やだ!!」
「ジロ」
「母ちゃんと一緒じゃなきゃ!俺は帰らない!」
ふてくされたように、俺はそっぽを向いた。
「俺が、どんなに寂しかったと思う?参観日も、運動会も、発表会も、いつも母ちゃんがいたのに…くるるんに行っても、ぐるりんぱに行っても…母ちゃんがいたのに!なのに、母ちゃん…何にも言わずにいなくなった…」
後から後から涙が溢れて、前が見えなくなった。
「子供広場で、鬼ごっこしたいよ。鉄棒だって、まだ教えてくれなきゃ無理だよ。からあげも、ハンバーグも、カレーも、まだまだ一緒に食べたいよ。一緒にお風呂に入って、本読んで、すごろくだって、トランプだって、まだまだやりたいよ。葵城公園だって、また行きたいし、くるるんにも行きたいし…洗濯や料理が大変なら、俺、手伝うし…だから、母ちゃん、一緒に、帰ろうよ」
溢れてくる涙を両手でぬぐうと、俺は母ちゃんの方に向き直った。
母ちゃんは「ごめんね」と言った後、涙でぐしゃぐしゃの顔を急いで服の裾で拭いてごまかしてた。
「母ちゃん…おみやげ買って、ドーナツ買って、家に帰ろうよ」
真っ赤な目をしたまま、母ちゃんはぷっと笑って俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「ジロ。あんた。よっぽどおみやげのドーナツが食べたいんだね?」
「だ、だってさあ。ご飯のあとはデザートじゃん…俺、ほんとは明日、母ちゃんに豆腐のドーナツ作って欲しかったんだからさ」
「えーっ。あんた、豆腐ドーナツも食べたかったの?」
「そうだよ。揚げたてが旨いんじゃん」
母ちゃんは呆れたように笑った。
「全く、ジロは相変わらずだ」
そう言いながら、母ちゃんは俺をぎゅっと抱き締めた。
「いつまでたっても、甘ったれで、テレビが好きで、面倒なことは後回し…そんな、母ちゃんの大好きな、ジロのままだよ」
落ち着かせるように背中を撫でて、母ちゃんは聞いた。
「ねえ、ジロ。ユキちゃんはどうしてる?」
ユキちゃんは、俺の一番上の姉さんだ。
ユキおばさん。7年前に亡くなった、お前の大おばさんだ。
「ユキちゃんは、相変わらず剣道バカだよ。今年は県大会まで行ったんだ。成績もこの頃すごく良くなって、このままなら東高も狙えるって」
「そう。じゃ、まみちゃんは?」
まみおばさんは二番目の姉さんだ。お前が生まれる前に亡くなったから、わからないだろ。
「まみちゃんは、この頃友達が出来たんだ。勉強もすごく頑張ってて、委員会なんかもすごく頑張ってる」
まみ姉さんは、発達に少し障害があってな。支援学級に通ってた。対人関係を築くのが苦手で、なかなか友達ができなかった。母ちゃんは、それをすごく心配してた。
「そう!友達が!良かった…」
ほっとしたような声で、母ちゃんは嬉しそうに言った。
「じゃ、なおちゃんは?」
なおおばさんはよく知ってるな?去年亡くなるまで、よく家に来てたからな。俺のすぐ上の姉さんだ。
「なおちゃんは、相変わらず。勉強も苦手だし、運動も苦手…ただ」
「ただ?」
「ピアノ、始めたんだ。友達のカノンちゃんとおんなじピアノ教室で」
母ちゃんは、俺をそっと離すと、笑ったまま俺のほっぺたを両手ではさんだ。
「良かった。みんな、ちゃんと前に進んでるんだね」
安心したように、何度も頷くと、母ちゃんは俺のおでこに、自分のおでこをこつんとくっつけた。
「ジロ」
いつもと変わらない話し声で、母ちゃんは言った。
「ジロは、これから、たくさんの人に会うよ。気の合う人も、そうじゃない人もいる。何でも話せる親友だったり、人生を一緒に歩こうと思える人に、出会う日がきっと来る…美味しいものも、たくさん食べられる。楽しいところも、もっともっと行ける」
参観日の帰り、母ちゃんが押す自転車に乗りながら話をしたみたいに、母ちゃんは話す。
「嫌なことも、悲しいことも、辛いことも、山ほどあるよ。でも、嬉しいこともキラキラ輝く思い出も、恋も、部活もあんたの夢も、まだまだ目一杯、あんたには、生き抜いて欲しいんだ」
母ちゃんの服は、俺の涙でぐしゃぐしゃだった。
母ちゃんはバッグからハンカチを取り出して、俺の目元を優しく拭ってくれた。
それから、相変わらず優しく、でも、言い聞かせるように、俺の目を見て言った。
「もうすぐ、ここに電車が来る。ジロはそれに乗って、父ちゃんと、お姉ちゃん達の待ってる家に、帰りなさい」
拭ってくれたはずの涙はまた、後から後から溢れては頬を伝った。
俺は返事ができなかった。
できるはずがないじゃないか。
せっかく母ちゃんに会えたのに、楽しく過ごせたのに、帰りなさいだなんて。
母ちゃんも、それがどんなに辛いことか、わかってたんだろうな。
今にも泣きそうな顔をしながら、それでも笑顔を作って、俺に言ったんだ。
「母ちゃんは、あんたたちには見えなくても、ずっとそばにいるよ。聞こえなくても、ずっとあんた達を応援してる。いつだって、どこにいたって。だって母ちゃんは、もう、どこにでも行ける、魔法の羽を手にいれたんだから」
魔法使いみたいにおどけたポーズをとって、母ちゃんは変な顔をした。
俺は、そのふざけた格好に、思わず笑ってしまった。ぼろぼろ涙を流しながら、ケタケタ笑っている俺を見て、母ちゃんも声を出して笑った。
「次に会うときは、ジロがおじいちゃんになったときだね」
ホームに、電車の入線を告げるアナウンスが流れた。
「ドーナツ、おやつに用意して待ってるからね」
向こうから、電車の警笛が鳴り響く。ライトが少しずつ近づいてくる。
母ちゃんは、もう一度俺をしっかり抱き締めた。
それから、そっとほっぺたを包み込んで、優しく頬擦りした。
電車がホームに滑り込み、ドアが開いた。
渋る背中を母ちゃんはそっと押した。
俺が車内に入ると、母ちゃんは「こっち」といって、俺を窓側のボックス席に座らせた。
俺が窓を開けると、母ちゃんはしっかりと俺の手を握った。
「ジロ、元気でね。降りる場所は、父ちゃんや姉ちゃん達が、教えてくれるからね」
扉が閉まり、電車が動き始める。
母ちゃんは、電車にあわせて走った。
「好き嫌いしないで、野菜も食べるんだよ。お菓子ばっかり食べないで…テレビもゲームも、時間を決めて…それから、帰ってきたらちゃんと手を洗ってよ」
「母ちゃん!俺、俺…」
電車がどんどん速度をあげていく。俺は母ちゃんの手をしっかり握った。
「宿題はその日のうちにやるんだよ。明日の支度も、前の日にやるんだよ。車に気をつけて…お友達を大切にして、お姉ちゃんたちとも仲良くするんだよ!」
もうすぐホームが切れるところで、とうとう母ちゃんの手が離れた。
離れたと思った手は、ぱちんと小気味よい音を立てて、俺の手にぶつかった。
母ちゃんは笑った。
笑ったまま、大声で叫んだ。
「いってらっしゃい!ジロ!」
そのハイタッチを最後に、母ちゃんの手は、離れていった。
俺は窓から身を乗り出して、ホームに残って手を降る母ちゃんに叫んだ。
「母ちゃーん!いってきます!」
って。
あの日言えなかった「いってきます」を、俺は、やっと伝えることが出来たんだ。
「やだ!!」
「ジロ」
「母ちゃんと一緒じゃなきゃ!俺は帰らない!」
ふてくされたように、俺はそっぽを向いた。
「俺が、どんなに寂しかったと思う?参観日も、運動会も、発表会も、いつも母ちゃんがいたのに…くるるんに行っても、ぐるりんぱに行っても…母ちゃんがいたのに!なのに、母ちゃん…何にも言わずにいなくなった…」
後から後から涙が溢れて、前が見えなくなった。
「子供広場で、鬼ごっこしたいよ。鉄棒だって、まだ教えてくれなきゃ無理だよ。からあげも、ハンバーグも、カレーも、まだまだ一緒に食べたいよ。一緒にお風呂に入って、本読んで、すごろくだって、トランプだって、まだまだやりたいよ。葵城公園だって、また行きたいし、くるるんにも行きたいし…洗濯や料理が大変なら、俺、手伝うし…だから、母ちゃん、一緒に、帰ろうよ」
溢れてくる涙を両手でぬぐうと、俺は母ちゃんの方に向き直った。
母ちゃんは「ごめんね」と言った後、涙でぐしゃぐしゃの顔を急いで服の裾で拭いてごまかしてた。
「母ちゃん…おみやげ買って、ドーナツ買って、家に帰ろうよ」
真っ赤な目をしたまま、母ちゃんはぷっと笑って俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「ジロ。あんた。よっぽどおみやげのドーナツが食べたいんだね?」
「だ、だってさあ。ご飯のあとはデザートじゃん…俺、ほんとは明日、母ちゃんに豆腐のドーナツ作って欲しかったんだからさ」
「えーっ。あんた、豆腐ドーナツも食べたかったの?」
「そうだよ。揚げたてが旨いんじゃん」
母ちゃんは呆れたように笑った。
「全く、ジロは相変わらずだ」
そう言いながら、母ちゃんは俺をぎゅっと抱き締めた。
「いつまでたっても、甘ったれで、テレビが好きで、面倒なことは後回し…そんな、母ちゃんの大好きな、ジロのままだよ」
落ち着かせるように背中を撫でて、母ちゃんは聞いた。
「ねえ、ジロ。ユキちゃんはどうしてる?」
ユキちゃんは、俺の一番上の姉さんだ。
ユキおばさん。7年前に亡くなった、お前の大おばさんだ。
「ユキちゃんは、相変わらず剣道バカだよ。今年は県大会まで行ったんだ。成績もこの頃すごく良くなって、このままなら東高も狙えるって」
「そう。じゃ、まみちゃんは?」
まみおばさんは二番目の姉さんだ。お前が生まれる前に亡くなったから、わからないだろ。
「まみちゃんは、この頃友達が出来たんだ。勉強もすごく頑張ってて、委員会なんかもすごく頑張ってる」
まみ姉さんは、発達に少し障害があってな。支援学級に通ってた。対人関係を築くのが苦手で、なかなか友達ができなかった。母ちゃんは、それをすごく心配してた。
「そう!友達が!良かった…」
ほっとしたような声で、母ちゃんは嬉しそうに言った。
「じゃ、なおちゃんは?」
なおおばさんはよく知ってるな?去年亡くなるまで、よく家に来てたからな。俺のすぐ上の姉さんだ。
「なおちゃんは、相変わらず。勉強も苦手だし、運動も苦手…ただ」
「ただ?」
「ピアノ、始めたんだ。友達のカノンちゃんとおんなじピアノ教室で」
母ちゃんは、俺をそっと離すと、笑ったまま俺のほっぺたを両手ではさんだ。
「良かった。みんな、ちゃんと前に進んでるんだね」
安心したように、何度も頷くと、母ちゃんは俺のおでこに、自分のおでこをこつんとくっつけた。
「ジロ」
いつもと変わらない話し声で、母ちゃんは言った。
「ジロは、これから、たくさんの人に会うよ。気の合う人も、そうじゃない人もいる。何でも話せる親友だったり、人生を一緒に歩こうと思える人に、出会う日がきっと来る…美味しいものも、たくさん食べられる。楽しいところも、もっともっと行ける」
参観日の帰り、母ちゃんが押す自転車に乗りながら話をしたみたいに、母ちゃんは話す。
「嫌なことも、悲しいことも、辛いことも、山ほどあるよ。でも、嬉しいこともキラキラ輝く思い出も、恋も、部活もあんたの夢も、まだまだ目一杯、あんたには、生き抜いて欲しいんだ」
母ちゃんの服は、俺の涙でぐしゃぐしゃだった。
母ちゃんはバッグからハンカチを取り出して、俺の目元を優しく拭ってくれた。
それから、相変わらず優しく、でも、言い聞かせるように、俺の目を見て言った。
「もうすぐ、ここに電車が来る。ジロはそれに乗って、父ちゃんと、お姉ちゃん達の待ってる家に、帰りなさい」
拭ってくれたはずの涙はまた、後から後から溢れては頬を伝った。
俺は返事ができなかった。
できるはずがないじゃないか。
せっかく母ちゃんに会えたのに、楽しく過ごせたのに、帰りなさいだなんて。
母ちゃんも、それがどんなに辛いことか、わかってたんだろうな。
今にも泣きそうな顔をしながら、それでも笑顔を作って、俺に言ったんだ。
「母ちゃんは、あんたたちには見えなくても、ずっとそばにいるよ。聞こえなくても、ずっとあんた達を応援してる。いつだって、どこにいたって。だって母ちゃんは、もう、どこにでも行ける、魔法の羽を手にいれたんだから」
魔法使いみたいにおどけたポーズをとって、母ちゃんは変な顔をした。
俺は、そのふざけた格好に、思わず笑ってしまった。ぼろぼろ涙を流しながら、ケタケタ笑っている俺を見て、母ちゃんも声を出して笑った。
「次に会うときは、ジロがおじいちゃんになったときだね」
ホームに、電車の入線を告げるアナウンスが流れた。
「ドーナツ、おやつに用意して待ってるからね」
向こうから、電車の警笛が鳴り響く。ライトが少しずつ近づいてくる。
母ちゃんは、もう一度俺をしっかり抱き締めた。
それから、そっとほっぺたを包み込んで、優しく頬擦りした。
電車がホームに滑り込み、ドアが開いた。
渋る背中を母ちゃんはそっと押した。
俺が車内に入ると、母ちゃんは「こっち」といって、俺を窓側のボックス席に座らせた。
俺が窓を開けると、母ちゃんはしっかりと俺の手を握った。
「ジロ、元気でね。降りる場所は、父ちゃんや姉ちゃん達が、教えてくれるからね」
扉が閉まり、電車が動き始める。
母ちゃんは、電車にあわせて走った。
「好き嫌いしないで、野菜も食べるんだよ。お菓子ばっかり食べないで…テレビもゲームも、時間を決めて…それから、帰ってきたらちゃんと手を洗ってよ」
「母ちゃん!俺、俺…」
電車がどんどん速度をあげていく。俺は母ちゃんの手をしっかり握った。
「宿題はその日のうちにやるんだよ。明日の支度も、前の日にやるんだよ。車に気をつけて…お友達を大切にして、お姉ちゃんたちとも仲良くするんだよ!」
もうすぐホームが切れるところで、とうとう母ちゃんの手が離れた。
離れたと思った手は、ぱちんと小気味よい音を立てて、俺の手にぶつかった。
母ちゃんは笑った。
笑ったまま、大声で叫んだ。
「いってらっしゃい!ジロ!」
そのハイタッチを最後に、母ちゃんの手は、離れていった。
俺は窓から身を乗り出して、ホームに残って手を降る母ちゃんに叫んだ。
「母ちゃーん!いってきます!」
って。
あの日言えなかった「いってきます」を、俺は、やっと伝えることが出来たんだ。