「先生、愛してる」


死んでいる、その言葉に一気に体が冷えていくのが分かった。固まってしまう私を横目に、先生は続けて言った。


「原稿があればいいんだけど、それももうきっと処分されているだろうね。しかもその人、一人身だった上に交友関係も少なかったから、本を持っているのは僕だけかも」


さらりと言う先生に、私は思わず大声を張り上げた。怒り、悲しみ、後悔、色々な感情が入り混ざって訳の分からない思いが湧き上がる。


「どうして。じゃあなんで始めからそう言ってくれなかったんですか!そんな大切なものだったなら、無理に貸してくれなくてもよかったのに!」


先生は何も悪くない、そう分かっているはずなのに、これじゃあまるで八つ当たりだ。実際のところ、私が声を張り上げたいのは紛れもない自分自身だ。彼の唯一の大切なものを軽率に扱ってしまった過去の自分にどうしようもないほど腹が立つ。


「秋奈がそう言うだろうと思ってわざと言わなかったんだ。死んだ知り合いの本だなんて言えば、君は読むことを拒んだだろう?」


────逆効果だったかな?
先生は困ったように言った。


「知らなくていいことだってある、そう思ったんだ。秋奈が楽しそうに、読んだ本の感想を語る姿が僕はたまらなく好きだ。秋奈が望むなら、僕はどんな本でも提供する。それじゃあ、だめかな」


先生の言葉に、何故か胸の奥が締め付けられた。徐々に頬が熱くなっていくことが触れなくても分かる。ああ、自分は今照れているのだと誰に言われなくとも理解した。


「だめじゃ、無いです」


小さな声で私は言った。その声が届いたのか否か、先生はにこりと微笑む。


「この話はおしまいだ」


「そんな」


私は「それでいいんですか」と先生に問うた。唯一の一冊だというのに、そんな簡単に諦めてしまっていいのかと不安になる。無理に私のことを気遣って言っているのなら、そんな同情はいらないとさえ思うのに。


「無理で言ってるんじゃない、心からさ。わざわざ秋奈が辛い思いをしてあの本を取り戻しに行くくらいならあんなもの、もうどうだっていい」


「先生…」


「それに、僕はもう絶対君を手放したくないんだ」


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