「先生、愛してる」
「先生…」
普段、人のいる空間では話しかけて来ない彼が、珍しく目の前で心配そうにこちらの顔を覗き込んでいる。
どうして。その言葉を言いかけて、飲み込んだ。彼は今、私のことを“柏木さん”と呼んでいた。つまり、今は皆のよく知るただの“先生”ということなのだろう。
何を焦ることがあるのかと自分の余裕のなさにため息をついた。
先生は私と目線が合うように腰を屈める。
「どうしたんですか?元気がないようですが」
「いえ。少し考え事を」
まさか岸田のことを考えていたとは言えず、私は答えた。スカートの裾を握る。すると、偽りの先生が私を見つめ、ふわりと柔らかい笑みを浮かべた。
「抱え込んでは駄目ですよ、僕でよければいつでも話し相手になりますから」
「お気遣い、ありがとうございます…」
「柏木さんは僕の大切な生徒なんですから。当然ですよ」
どうして、彼は今こんなことを言うのだろう。話なら、いつものように二人の時でいいのではないかともどかしい気持ちになる。
このときの先生はまるで別人だ。
優しくて笑顔を崩すこともない。完璧な爽やかさを持つ。意地悪で予測不可能な本当の彼とは大違いだ。けれど、私はこの姿の先生はあまり好きではない。偽りという仮面を着けた彼など、心の無い喋る人形と同じだ。
緊張と不安のあまり、先生の方を見れずにいたそのとき、トントンと先生に肩をこずかれた。
目を合わせると、私は先生の表情に一瞬息を止めた。自然と胸の鼓動が早くなってゆく。なぜなら、そこには"本当の先生"がいたのだ。先程までの作り笑顔とは違い、貫くような眼差しが私のことを捕らえている。
「せん…」
────────先生。
言い終わる前に、先生が自身の口元に人差し指を当て、"静かに"と聞こえない声で言った。そして、先生は立ち上がる。
その合間に私に耳打ちをすると、すぐに仮面をつけて「読書の邪魔をしてごめんね」と去っていった。
机に落としたままになっていた本を拾い上げ、読んでいた箇所までページを捲る。長く息を吐き心を落ち着け、文字の羅列を追うが、何故だろう。全く身に入らなかった。
先生の言葉が頭の中で木霊する。
────彼のことは忘れろ。
先生の前では、きっと嘘を吐くことさえ敵わない。彼はあの鋭い眼差しで、まるで全てを見透かしているようだ。
先生の言うことも理解できる。岸田と関わることを良く思っていない彼が、妙に岸田を気にする私を嫌に思うのは仕方の無いことかもしれない。
だが、忘れろというのも酷なことだった。
見るからに姿を変え、行動の意図が掴めないでいる彼を、放っておくこともできない。
難しい事実の壁に挟まれて、私は身動きが取れなくなっていた。