脈打つルージュ
なんでたってんの?






「ばんわー」

私の身体がいよいよ余すところなく肌色ではなくなってきたころ、その男は現れた。
彌広が敏腕と信頼する画商兼マネージャー、美鈴である。画商ながら、長身で均整の取れた体つきに、甘ったるい顔のつくり。初めて彌広に紹介されたときは、ホストかと思った。それくらいには見た目が派手で、口が回る男である。

「……ミレーさん。まだ完成しないから、コンビニで雑誌でも読んでて」

彌広が玄関を振り向きもせず言う。
素っ裸の最中に割り込まれたが、彌広の次に私の裸を見ているのはきっとこの男だ。今更恥ずかしがって風呂場に逃げ込んだりしない。

(それに私はいま、ただのキャンバス……)

彌広の筆が止まらない限り、私も人間には戻れない。

「いいよいいよ。どうせもうすぐでしょ、待ってる」

美鈴の視線が、彌広と私を交互に貫く。
作業を邪魔されることを嫌う彌広は顔をしかめたが、特になにを言うでもなく座っていた位置を変えて再び作業に没頭し始めた。
彌広の体に遮られ、私から美鈴の姿は見えなくなる。まあ、あまり見たくない。




「お疲れさん」

その後一時間かけて描き終わった彌広に、美鈴がコーヒーを差し出した。
毎度のことながら、私の分はないらしい。これにも馴れた。
彌広はいつもこのコーヒーを私と半分こしてくれるので不満はないが、私をただのキャンバスと一番に割り切っているのはこの美鈴かもしれない。

「奈津さんもお疲れー。ちょっとよく見せてくれる?」

今までじっと玄関に立って彌広を見守っていた美鈴が、ずかずかと遠慮なしに入ってくる。そうして彌広を押しのけて私の目の前にくると、じっと真剣な目で『キャンバス』を観察した。
画商の目である。今の彌広がいるのはこの男のお陰といっても過言ではないので、無遠慮な視線に文句を言ったりしない。

「……それでなにしにきたの、ミレーさんは。あとで写メ送るって言ってあったでしょ」

彌広がぐっと伸びをしながらこちらを振り向く。
私も四時間座りっぱなしで固まった筋肉をほぐしたいところだが、絵が崩れるので美鈴と彌広が満足するまでは動けない。

「たまたま近くに寄ったからさあ。作業捗ってますかーって、お宅訪問」

美鈴は『キャンバス』から目を逸らさずに言う。
今日の私は、畳と冊子と窓と空模様で彩られている。彌広が座っていた角度から見ると、部屋と同化して背景に見えるはずだ。ただし顔は着色されていないので、生首が浮いているように見えるかもしれない。

「いいね、彌広はほんと腕がいい」

美鈴が感嘆の声を洩らす。
平面ではなく、立体的な肉体に絵の具と化粧品を使って、絵を描く。
素人の私にはそれがどれほど難しいことかわからないが、彌広の描く絵は単純にすごいと思う。
うまいともきれいとも違う。人の皮膚を使っているからこそ表現できる、どこか生々しく背徳的な美。正直に美しいと公言できない、妙な罪深さ。

「あとでまた写メ送っとく」

美鈴さんを押しのけて、彌広が私の目の前に座った。

「奈津、もうちょっとだけ我慢して」

携帯を構えた彌広に、描き上げた作品を検分するように見つめられる。

(その目に、ちょっとでも熱がこもっていればいいのに)

ひんやりした彌広を見たくなくて視線を逸らすと、後ろに立つ美鈴と目が合った。
こちらもこちらでキャンバスとしてしか見ていないかと思えば、まるで脈のない私を笑顔で哀れんでいる。いつか美鈴の革靴の中に茶色の油絵の具をしこむことを私は誓った。

彌広が長い留学から帰国してから三年。
彌広、私、美鈴。この三人でタッグを組んで、私がこの生きながらにして無機質を演じるモデルを始めてから、二年が経とうとしていた。そうして長い時間、彌広の無感情な視線に曝され続けた私は、ある危惧を抱いている。

(……こうして長い間、私をただのキャンバスとして見ている彌広に、そのうち本当にただのもののように見られてしまうかもしれない)

所詮キャンバスは使い捨てだ。リサイクルするにしたって限度がある。
そうして私は今、その限度が迫ってきているような気がして、恐れていた。




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「奈津さん、見て見て」

私は週に四回の頻度で彌広のアパートに行くが、それは会社を終えた夜にだ。
彌広のキャンバスをしているからと言って収入が発生するわけはなく、昼間は普通にOLをしている。
そんな会社での後輩がうきうきしながら私のデスクに美容雑誌を広げた。そこには、彌広のスポンサーについている化粧品会社のロゴと商品、絵画の写真。

空気に今にも溶け出しそうな色彩には、実に見覚えがある。

(彌広の絵だ)

彌広の顔写真と、今までの作品の数々。使ったコスメの種類。『私』に描いたものもあれば、昔描いた紙の作品もいくつか載っている。

「この画家さん、奈津さんと同い年ですよ。ちょっとかっこいいですよね」

後輩はほくほくしながら彌広の写真を指差した。相変わらず、女受けする顔である。

「童顔すぎない?」
「そこがかわいい~」

そうですね、でもこいつ、舌にピアス開けてるよ。全然かわいくないよ。活動が軌道に乗り出した頃、何故か突然開けたんだよ。痛いの苦手なくせに、意味不明だよ。

「この裸のモデルさん、奈津さんにちょっと似てません?」

ぎくり。

「顔にも髪にも色が塗ってあるからわかりづらいけど、なんか鼻の形とか、唇とか」

鋭い。
やはりいくらキャンバスに徹するとはいえ、身体や顔の造形までが変わるわけではないので、なんとなく似てる、という感想は今までにももらったことがある。
とはいえ、彌広の作品でいる間は、私は私であって私ではないのだけど。

「そうかな。……こんな大胆な真似できたらいいけどねえ」

してます、ごめんなさい。

「ですよねー。こんなの、二十歳のときでもむりですよねー」

ですよね、もうすぐ三十路のばばあがやっていいことじゃないですよね。

「でもでも、こんな素敵な画家さんと裸でふたりきりとか、なんかいい」

全然よくないよ。大股開いてポーズ撮ったときですら、顔色ひとつ変えなかったんだよ。

(それとも君くらい若くて可愛かったら、彌広も欲情してたのかな)

不毛だ。

「でもこのモデルさん、スタイルいいほうじゃないですよね。普通っていうか、平均っていうか……もっとラインが綺麗な人を使えばいいのに」

うわー知らないって怖いな。
無邪気に笑っている後輩に、ははは、と苦笑が漏れる。

「いいなあ。こんな画家さんとデートしてみたい」

そんな画家さんと仕事が終わってから全裸でお絵かきする予定ならあるよ、と隣でうっとり呟いている後輩に言ってみたくなった。






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「なんか今日、部屋の匂いが違うね」

会社帰りに彌広の部屋に寄ると、嗅ぎ慣れない匂いがした。絵の具と化粧品の匂いしかしなかったボロアパートに、甘い匂いが漂っている。私が一度使ったきりほったらかしにしているボディミルクと同じ、とろりとした甘い香りに似ていた。

「え、ああ……」

私が言うと、彌広は思い至ることでもあるのかないのかわからないような返事をした。
今日は花の金曜日。大の大人がふたりそろって、片方は全裸にも関わらず、六畳一間のボロアパートで大変健全な写生大会を開いている。

「再来月、青山ホールで展示することが決まったんだ」

今月に入って四度目の練習を進めながら、彌広がぽつりと洩らした。

「よく大きな演奏会とかやってるとこ?」
「そう。……それで今、その展示に出す作品をどんなふうにするか、考えていて」

この場合、作品イコール私である。
少し傾けた視界に、アパートと隣接する大きな河のきらめきがうつった。今は午後八時。墨を流したような水面に、家々の明かりや車のライトが反射している。その水面の動きに合わせるように動く、彌広の筆が私の皮膚を走る、心地よい音。




「……ねえ、奈津」

彌広の、少し躊躇いがちな声。

「ミレーさんとも話したんだけど、そろそろ、キャンバスを替えようと思うんだ」

ああほら、きた。限度。

「……私の体じゃ、彌広の世界は表現しきれない?」

彌広を直視できなくて、私は傾けた視線のまま、口だけを動かす。
この破裂しそうな心臓の動きが、私の皮膚を撫でる筆に伝わらないようにと願いながら。

「そうじゃない。……そうじゃなくて」

歯切れが悪い。作品のことになると、普段穏やかな性格がなりをひそめて、人格が変わるくせに。

「……用済み?」

言いにくいなら、私から言ってあげるよ。
顔を上げた私の言葉に、彌広は傷付いたような顔をした。

(なんであんたがその顔するわけ?……私がしたいっつの)



「奈津、そうじゃなくて」
「そうじゃないなら、なに?」
「……だから」

必死に言い募る彌広の顔を直視しながら、私の心は冷えていく。
彌広の握った筆の先が、動くのをやめた。

「……今日はもうやめよう」

最悪。
俯いた彌広が、かちゃかちゃと散らばっていた化粧品や絵の具を片付け始める。
その態度が、無性に癪に障る。
言いたいことがあるなら、はっきり言ってよ。

「描けば」

むかむかして、低い声で可愛くないことを言ってしまう。

「描けないよ」
「どうして」
「……描けない」

ああそう。

「これ借りる」

足元に転がっていた蓋が開いたままの口紅をひっつかんで、勢いよく捻る。メイク用には使われなかった憐れな口紅は、先がぐちゃぐちゃに潰れた薔薇色の赤だった。青いケースの文字は削れていて判別できない。国産でも外資系でも、描けるならどっちでもいいわ。

潰れた先端を、乱暴に唇に塗りつける。うまく塗れなくて、前歯で少し齧ってしまった。にがい。なにもかもが。


「奈津?」

訝る彌広の胸ぐらに手を伸ばすと、驚いた彌広の口の奥で舌が縮み上がるのが見えた。肉厚のそれの中央に光るセンタータン。それを飲み込むように、私は彌広の唇に真っ赤な唇を合わせる。

がつ、と唇と一緒に赤くなってしまった前歯がぶつかった。

「っな、つ」

慌てる彌広の身体を力任せに後ろに倒して、裸のまま乗り上げる。
中途半端に描かれた絵が、まるで刺青のように私の太腿で蠢いていた。

苦い。

塗りすぎた不恰好な口紅が、私の心が。
彌広の抵抗が弱くなって、私は更に体重をかけた。うまく飲み込めなかった唾液がだらだらと口から零れて、お互いを汚す。暫く夢中で彌広の舌を吸っていた。彌広もまるでそれが自然であることのように瞼を閉じて、私の舌に応えている。

口の中でない交ぜになった苦い味覚が、じわじわととろけた脳を覚醒させる。

(……なにやってんだろ、わたし)

冷静になって舌を引っ込めると、彌広の腕が私の肩を押しやった。
その頃には互いの胸がぜいぜいと鳴って、全くもって格好がつかない。

膝立ちになって見下ろした彌広の唇に、かすれた口紅が移っていた。

(やっぱり、彌広みたいに上手に描けないや)

わかりきっていたことなのに、軽い失望感。

「……なにすんだ」

彌広の、どこか子供じみた声が私を責めていた。
怒ってるのかな。
怒ってるよね。

「……なにしてんだろ」

どこか茫然自失に呟くと、ふと彌広の股間に視線が向いた。
くたびれたシャツとデニムがずれて臍が見えている。その更に下。

私の裸をどれほど間近で見ても、触れても反応しなかったそこが。

「なんで勃ってんの?」

思わず口に出してしまうと、彌広の顔が真っ赤に染まった。
あれ、なにその反応。
私が呆然としたまま動けないでいると、彌広は赤くなった顔を隠すように勢いよく立ち上がる。そうしてこちらを見もしないで、ぼそりと呟いて。

「今日はもう帰って」

そのまま部屋を出て行ってしまった。

「……なんで勃ってんの?」

残された私はといえば、思わずもう一度呟いてしまった。







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