脈打つルージュ
抜け殻






『なんで泣いてるの』
『みんなが、俺の描く絵はおかしいっていう』
『おかしいっていうか、頭おかしいんじゃないのってくらいうまいよね』
『そんなこというの、奈津だけだよ』
『いや、あんたは、頭がおかしいくらい絵がうまい』
『褒められてんのか馬鹿にされてるのかわからなくなってきた』
『彌広の描く絵は、見てると頭がおかしくなるくらい、きれいだよ』


だって私、あんたが描く絵が大好きだもの――。







頭が重い。

随分と懐かしい夢を見ていた。
中学校に上がりたての頃、抽象的な画風を描くことにはまっていた彌広の絵に友人たちはついていけず、そんな周囲に、彌広はよく馬鹿にされていた。

(ばかだな、あんたの描く絵が、おかしいわけないでしょ)

小さい頃からそうだった。純粋で真っ直ぐで、とにかく綺麗で、でもどこか曖昧で悲しくて、彌広という人間をまんま表現したような絵が、私は好きで好きで、堪らなかったのだ。

(でもそれは、あんたのことが大好きだったからで)

失恋して、彌広を思うたび痛い思いして、そんな自分は果たして、今までのように彌広の作品を好きになれるのか――私ではない、違う女の肉体に描かれた絵を。


(……って、ちがう。それはもういい。私には関係ないことだ)

彌広のアパートを訪れなくなって、一ヶ月は経っていた。

彌広から何度か着信があったので、メールだけ入れたのは覚えている。
今まで使ってくれてありがとうとか、これからは新しい人と頑張って、とか、美鈴ぶっ殺したい、とか、これからも応援してる、とか。

まあなんか、そういう内容だった気がする。
彌広からはそれ以来連絡もなくて、傷むプリン胸を除けば、穏やかな日々だった。

無駄毛処理をしなくなってあちこちぼうぼうになった体を見て、彌広の絵が刺青みたいに傷として残ればよかったのに、と、何度も思ったけれど。そしてその度、美鈴が言った〝刺青女〟が頭に浮かんでむかむかした。

(彌広のあれは、化粧だ。纏っている間は別人でいられるけど、落としたら本来の自分に戻る。……戻らざるをえない)

それを望むか望まないかなんて本人の意思は無視して。
べっとりついていたあの赤い口紅も、その日のうちにクレンジングで綺麗さっぱり落ちてしまった。それが寂しくて寂しくて仕方ないなんて、まあそれが、失恋の醍醐味ってやつですよね。




「奈津、あんた休みだからっていつまで寝てるの」

台所に入ると、食器を洗っている母親から諌められた。
彌広のもとへ通わなくなった私は、その空いた時間をほぼ全て睡眠にあてるという、自堕落なのか健康的なのかわからない生活を送っていた。

「みっちゃんのモデルやめて寂しいのはわかるけど、ちょっとだらしないわよ」

みっちゃんとは彌広のことである。幼い頃から面倒を見たり見られたりなので、母にとっては彌広も息子のようなものなのかもしれない。

「……申し訳ござーません」

私は謝罪しつつ、トースターに食パンを突っ込んだ。
そういえば美鈴にパラサイトシングルって馬鹿にされたな。ヒトサマの家のあり方に口を出すとか何様だ。ミレーさまか?絵の具に溺れてくたばれ。

「そういえば、あんた知ってた?青山ホールで開催される予定だったみっちゃんの個展、中止になったみたいよ」

ガチャン。
冷蔵庫から取り出しかけていたマーガリンが、見事に私の右足を直撃した。

なんだって?


「なんでも、納得のいく作品が描けなくなったとかなんとか。画商の人も大変だったみたい。隣のみっちゃんのお母さんも、どうしたのかしらって困ってたわ」

母のそんな言葉を尻目に、私は自室に携帯電話を取りに向かった。

(……あのクソマネ、自信満々で彌広のことは任せろって言ってたくせに(言ってない)、役に立たなすぎでしょ)

アドレス帳から美鈴を呼び出して、呼吸を整えることもせず電話をかける。

(あんたが、彌広を支えてくれるって思ったから、だから私は――)

思い至って、私は呼び出し中だった電話を切った。
ついでに折り返されると気持ち悪いので、着信拒否に設定する。


(美鈴に説明させても意味ない。彌広に、直接会いに行かなきゃ)

なにがあったの。
どうしたの。
あんたが今までたくさん悩んできたこと、知ってるよ。でも、いつだって乗り越えてきたでしょ。

(あんたが今まで死に物狂いで絵を描いてきたこと、私は知ってる)

だって一番近くで、見てたんだから。






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