うつりというもの
「お母さん…」

横に座っていたのは、遥香の母、小百合だった。

着ていた服に見覚えがあった。

確か、家に帰って来なかったあの日の朝、学校に行く自分を玄関で見送った時の服だった。

身体はざわっとしたまま。

だから…

小百合は、何も言わず、ただ微笑んでいた。


「お母さんなの?本当に、お母さんなの?」

小百合は、変わらず微笑んでいた。

怖さはなくなった。

それより。

「お母さん…私…、私…、ごめんなさい…」

遥香は母の方に手をつくと、泣きながら頭を下げた。

顔を上げると小百合はゆっくりと首を振った。

「ほんとに?…本当に許してくれるの?」

小百合はゆっくりと頷いた。

「お母さん…」

遥香は涙ぐんだまま母を見つめた。

手を伸ばせば触れられそうな感じだったが、それは無理だと分かっていた。

時間もないと感じた。

「お母さん、教えて。お母さんを殺したのは、誰?」

遥香は涙を袖で拭くと気丈な感じで母を見つめた。

小百合は、その微笑みを悲しそうな微笑みに変えただけだった。

「お母さん!」

小百合はその微笑みも消して、少し俯いていたが、顔を上げると口を動かした。

何か言ったが、それは遥香には聞こえなかったし、口の動きだけでは、それを言葉に変えられなかった。

「ねえ、お母さん、もう一度言って」

遥香がそう言ったが、小百合は寂しそうな微笑みをまた浮かべただけで、そのまま消えていった。

「お母さん!待って!」

遥香は小百合がいた場所に手を伸ばしたが、その手には何も感じなかった。

そして、あの感じもなくなった。


「お母さん…」

遥香は顔を両手で押さえると、また泣き始めた。

「ごめんなさい、お母さん…。きっとお別れを言いに来てくれたのに、私…」

遥香はまた、悔いを残してしまった。
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