愛されたいのはお互い様で…。

妊娠は駄目になってしまったが…、打撲した身体の回復は早くて、仕事にしても問題は無かった。
頭の痛みは別だ。
だから、歩道で自転車に衝突され、脳震盪で記憶を失った事の説明だけをした。それは俺がした。
そして、今は、俺の部屋で暮らしている。
伊住さんがそうしてやって欲しいと言って来たんだ。
説明したところで、理解できても半信半疑…。紫にとって知らない人間と暮らす事は出来ないだろうって。まして男と二人だから、と。
思い出す為には一緒に居た方がいいような気がするが、それは紫にとって強いストレスになるからと。

俺は物凄く複雑なんだ…。
…紫と一緒に居る事…別れた記憶の無い紫は、昔のように接してくる訳だし、男と女…それで困る事だってあるんだ。それを由とはできない。

紫が伊住さんの部屋に越す前だったら、自分の部屋に帰る事も出来たんだけどな。それだって一人になってしまう。
だから紫の身の回りの物は退院する時、ある物を持って来ず、俺が揃え、部屋に連れて来た。
突然記憶が戻った時、一人だったら危ないからと、話し合って紫と決めて、一緒に居る事にした。
話し合いは俺の中ではあくまで形だけのモノだ。いいからと言われても、一人には絶対出来なかったから、初めから一緒に居る事に拒否はさせなかった。


「ねえ、務…」

「あ、おぅ、何だ?」

「折角だから、手、繋ごう?…変かな」

「うん?いや、そんな事は無いよ」

紫の手を取り繋いだ。

…紫がフラッシュバックしたみたいに、事故の瞬間の事、伊住さんの事、妊娠の事…、突然思い出した時、どうしたらいいんだ。きっとパニックになる。そして、お腹の中に居るはずの命が居ない事が解る…。
そうなった時、居て欲しいのは俺じゃないと思う…。

今日は休みだ。暑いからかな。公園に子供の姿は無かった。

「あ、紫、待て」

「え?」

「ベンチ、子供が汚してるといけないから」

パタパタと座面を掃った。

…。

「務…ここ…、一緒に来た事…無かったよね?」

…どうなんだ。来た事があると言えば、色んな事が混ざってしまうが…。
消えている記憶の部分は、一つ何か思い出せば、芋づる式に甦るのか?
…いや、迂闊な発言は混乱させてしまうかも知れないな。流れに、自然に任せようか。

「そうだよ…。そもそも俺とこんな風になんて、なかったじゃないか」

「そうだよね…でも、何だか、こうして座ってると…何だか、あったような気になったの…変よね。
フフ…暑いでしょ、務、汗、出てる。来た時間、間違ってるね。子供の方がずっと賢いね〜。
ちょっと待って…」

紫は差し掛けていた日傘を俺に握らせた。
バッグから出した濡らしてあったタオル製のハンカチで俺の額を拭った。首筋にも当てながら、こうすると気持ちいいでしょ、と笑い掛けてきた。…俺の好きな笑顔だ。

…このままでは良くないよな、紫。どの部分を生きているのか…紫自身が解らないなんて。
今の紫がしているのは、もう偽りの、過去の恋愛なんだ…。

「なあ…紫、今こうしている事…部屋で一緒に暮らしてる時間…。紫の記憶が戻ったら…、消えて無くなるのかな…。最初からこういう風にして…、いつも一緒に居たら良かったな。
……抱きしめさせてくれないか…いいか?」

「うん」

…務?どうしたの?別に…聞かなくていいのに…。

柔らかく抱きしめられた。私も抱きしめた。務…。努力、してくれてるのかも知れない。これからは、特に拘らずに、こんな散歩も増えるかも。

「務」

「…ん?」

「務、務。務」

「どうした?」

「フフ。何だかいっぱい呼びたくなったの。務が今みたいに暮らすのがいいって思ってくれてるなら、私も…ずっと一緒に居たいな、務と。ずっとって…嬉しい。務…」

あぁ…紫。………紫、…。こんな……。あぁ…一緒に居たら良かったんだよな…。紫…。

「…紫、行きたいところがあるんだ…行こう」

「え?…うん」

土曜の街中を務と手を繋いで歩いた。こんな事、無かった…。
どこに行くんだろう。

私の記憶が消えている間に過ごした事は、記憶が戻ったら消えてしまうの?…。そんな事、無いと思う。昨日だって一昨日の事だって、ちゃんと脳は覚えてるもの…私が務との事を忘れたりするなんて絶対無いから。


何だか…路地に入って行くようだ。

「ここだ、ここから行くんだ。薄暗いけど怖くないから」

少し戸惑った。

「…う、ん」

務に手を引かれ、ついて歩いた。強く握った。

「ねえ、務?何だか…冒険してるみたいね」

「そうだな…冒険みたいなもんだな…」
< 147 / 151 >

この作品をシェア

pagetop