初恋の味は切なく甘い

再会



 昨日の晴天が嘘のように、空は灰色の雲で覆われていた。普段なら私は晴れの方が好きだ。しかし、それが真夏の炎天下をもたらすとあっては、どんよりとした雲を好ましく見つめるのも無理からぬことだろう。

 昨晩は久しぶりに父と母と共に夕食を食べることが出来た。それが私の心に新鮮だったのだろうか。つい大学生の時のように、朝というには遅い時間まで惰眠を貪ってしまった。
 寝ぼけ眼だった私だったが、特にすることもないので、こうして散歩へと繰り出しているというわけだ。



「ここらへんは、そんなに変わっていないんだ」

 と私はかつて中学校へ向かっていた道を歩みながら独り言をこぼす。

 何度も友達と、雨の日も雪の日も足繁く歩いた通学路。幾年もの時を挟んだ今となっては全く見知らぬ道のようにも感じるが、それでもまるで十代に戻ったような不思議な懐かしさに囚われる。


 のんびり歩きながら私は思う。

 身体はだるかったけれど、出てきてよかった。不思議と、まるで幼い時に感じた、冒険に出かけるような気持ちが心に湧き出るのを感じる。
 意図せず脚が軽やかに跳ねる。都会にいた時には想像も出来なかったことだ。
 オシャレな店もないし、坂道も多いけれど、なぜか色鮮やかに映って飽きない。

 そんな浮かれた気分のせいだろう。
 気がつくと、予定よりも随分と中学校の方へと歩いてきてしまっていた。

「いけない。母さんが昼ご飯作ってくれてるんだ。もう帰らないと」

 先程までの浮き立つ鼓動はどこへやら。多くを忘れた道のりに焦りが募る。


 私が踵を返し来た道を戻ろうとした、――その時。

 ポトンと小さな粒が、私の頭上に落ちた。
 なんだろうという疑問をいだく間もなく、それを皮切りに幾多の雫があっという間にコンクリートの地面を濡らしていく。
 気にならない程度だった小雨は、すぐに視界を邪魔するぐらいの大雨へと変わってしまった。

 当然、傘など持っていない私は、否応なしに濡れてしまうわけで。
 ざけんなと内心舌打ちしつつ、近くの民家の屋根の下へと走る。

 あまり運動していなかったこともあり、ちょっと走っただけで息が切れる。屋根の下、ため息混じりに見た自身の姿は思ったより濡れてしまっていて、お気に入りのワインレッドの靴に至っては中までで気持ちが悪い。
 とはいえ、自然に対して怒れるほどの度量を私は持ち合わせていない。今はただ、突然の雨に途方に暮れる無力な女でしかないのだ。

 はあ、どうしたものかとデニムのポケットを探る。母に迎えに来てもらおう。
 と、次の瞬間愕然とする私。

 ――ない。スマホがない!

 迂闊だった。寝起きでパパっと準備して散歩に出てきたので、つい枕元に忘れてしまった。

 はあーーーっと深い溜息が出る。どうしよう。
 見上げた空は暗い灰色の雲に覆われ始め、これからどんどん雨が激しくなりそうな様相を呈している。

 都会なら少し走ればコンビニで傘を買えるが、こんな田舎にそんなしゃれた選択肢があるはずもなく……。

 ――とそういえば。
 私は雨宿りしている民家を振り返る。学生の時はこんな建物は見かけなかったな。
 誰か個人の家かと思っていたが、よくよく見ると透明なガラス戸だけの窓から見える室内には商品らしき絵画や写真が並び、電気が消え薄暗いながら、どこか洗練されたセンスを感じた。

「何のお店なんだろう……」

 無造作にこぼれ出た独り言。本来虚空に消え行くはずのその言葉は、思わぬ形で返ってきた。

「いらっしゃい。すいません、今開けますんで」

 背後から掛けられた言葉に、思わず身体がビクンと跳ねる。
 振り返ると、そこには爽やかな好青年という風貌の男が立っていた。
 柔らかな笑みを浮かべる彼につられて、私の表情も柔らかくなる。

 しかし、店員であろう彼に余計な気を遣わせるのも申し訳ない。私はあくまで雨宿りしていただけなのだ。
 私が訂正のために返答しようとした、その時。
 彼の顔に僅かに驚きが広がった。

「もしかして、沢城?」

 いきなり私の名字を呼ばれてしまった。どうしよう。どこかであっただろうか。……まさか取引先の誰か? マズイ、思い出さないと……。

 男性は私のかすかな動揺を敏感に感じ取ったのか、慌てた様子で続けた。

「おれだよ、竹中信人。同じ中学だった」

 私はいきなり遠い昔のことを言われて一瞬固まってしまったが、次の瞬間ぼっと顔から火が出るのではないかと思うほど頬が紅潮してしますのを感じた。


「ノノノ、ノブ君……?」


 突然告げられた予想外の名前に、動揺を隠せず盛大に噛んでしまう私。
 だが、彼の名を名乗った男は、からかうでもなく少し照れた様子で頬を掻いた。

「お、おう。久しぶりだな」

 彼の反応を見ながら、私は高速で自身の思考を整理していた。
 目の前にいる彼こそ、バスの中で見た夢に出てきた私の初恋・告白した男性、その人なのである。
 もう中学生時代の恋心など遠い昔に置いてきたと思っていたのに、突然のことで混乱して、頭を抱えてしまいそうになる。

(落ち着け。落ち着け、私!)

 荒くなる呼吸を平常に保ちながら、微笑をなんとか浮かべ、ノブくんに反応を返す。

「本当に久しぶりね」
「ああ。確か沢城は東京に出たんだっけ。もう地元に戻ってきたのか?」

 彼の疑問に私は首を振る。

「ううん。ちょっと遅いお盆休みで帰ってきただけ。また数日後には向こうに戻るよ」
「そっか。じゃあ会えてラッキーだったな……、ってお前濡れてんじゃねえか!」

 ノブくんが私の髪や服に視線を向け、驚いたような声をあげた。

「あ、うん。久しぶりに散歩してたら、突然雨が降ってきて、ここで雨宿りさせてもらってたの。携帯も家に置いてきちゃってて」

 と言い終えるやいなや、私は濡れて冷えてきたこともあって、クシュンとくしゃみが出てしまう。

「おい、そんな濡れたままだったら風邪ひくぞ。」

 無造作にノブくんは私の手を掴むと、手早く店のドアを開けて私を引っ張った。

「とりあえず、タオル貸すから体拭きな? 電話もあるしさ」

 普段なら男性からこんな強引な対応をされれば全力で断るのだが、久々に帰った地元、偶然再会した初恋の相手というシチュエーションに、つい流されてしまう。
 私は彼の言葉に力なく頷きながら、「うん」と応えると、おそるおそる薄暗い店内へと足を踏み入れたのだった。


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