今宵、皇帝陛下と甘く溺れる
 机とベッドとタンス、それくらいしかない質素な部屋だった。アリーナにしてみれば十分すぎるが、城にしてはあまりにも。
 机の上には書類が積まれていた。何が書いてあるのかはわからない。机に近づいていき、アリーナは声をあげかけて口をおさえた。

 椅子から転がり落ちるように人が倒れている。その傍らに小瓶が割れ、黒いインクが水溜まりを作っている。さっきのはこれが落ちた音か。

 インクより濃い、見覚えのある黒髪。
 間違いない。カディスだ。

 そのことに気がついた時点で放って逃げ出そうとしたが、カディスはぴくりとも動かない。
 机の上にあった書類の端でつついてみるが反応がない。次いで自分の指でもつつくが、睫毛すら揺れない。

「ちょっと……」

 何をしても気がつかないのならと肩を掴み、ひっくり返す。
 目を閉じていてもわかる美貌。しかし顔色は明らかに悪かった。紙よりも白い、血の気が失せ過ぎて紫がかった頬。
 慌てて口元に耳を近づける。息はしているようだ。しかし呼吸は不規則で、簡単に止まりそうに思えた。

 早く立ち去ろう。こんなひと、どうなっても関係ない。そう冷酷な自分が囁く。

 それがいいのはわかっている。でも、こんな状態で? 放っておいたら……死ぬのではないか。

 まだ心が決まっていないまま、アリーナはよろよろと部屋を出た。どうすればいいのかわからなかった。
 パニックになりかけた時、向こうから灯りが近づいてきた。手燭の光だ。
 それは金髪碧眼の若い男だった。アリーナが呆然と見つめていると首を傾げて立ち止まる。

「おや、ここで何をされているんです?」

「えっ、と……」

「女性がそんな格好で、夜に出歩くものではありませんよ。わたしは図書館にいて、気がついたらこんな時間だっただけですが」

 言われて、自分が寝間着であることに気がつく。対して男は日中に着るようなものよりは装飾は少ないものの、ちゃんとした格好をしていた。

「おや、あなたは──」

 男が手燭を掲げてアリーナを照らす。アリーナは心臓が激しく脈打つのを感じた。不審がられただろうか。寝間着で彷徨いているなんて怪しすぎる。

 しかし男は何かを咎める風でもなくアリーナを見るだけだった。
 ただ、なんとなく視線が合わない。

「それで、ここでどうされたのですか」

「この部屋の中で、人が……倒れていて。助けを……」

「それは大変です。わかりました。誰か呼んできましょう」

 男が頷く。これで一安心だと胸を撫で下ろすアリーナに、男が一歩近づいた。

「ああ、そういえば言い忘れたことがありました」
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