揺蕩うもの
 窓の外を見つめる紗綾樺は、素肌に大きなサイズのシャツを羽織っただけの姿だ。薄いブルーのシャツに隠された白い裸体を覆うものは他に何一つない。
 雨が一滴、また一滴と滲んだ色をしたアスファルトに溶けていくたびに、街の中は足元から暗くなっていくようだった。
 せっかく色付いた紅葉の葉も、美しい銀杏の葉も、こうして何度か雨に打たれるうちに落ち葉になり人目につかぬ場所へと消えていくのだろう。
 兄の作ってくれた食事にも手を付けず、紗綾樺はただ窓の外を見つめていた。
 本当なら、もう支度をして家を出なくてはいけない時間だったが、今日は気分がのらず、未だに布団から出てきた状態で窓の外を見つめていた。

 最初にこの仕事を始めたのは、なんとなくだった。正直、こんなに長い間続けるとは自分でも思っていなかった。
 毎日、よく知らない相手の未来を視る。どんな内容でも、問われれば答える。その繰り返しの毎日。視みたものが間違っていなければ、当たると評判になるまでに時間はかからず、それからは退屈を持て余す暇もなく、毎日大勢を視続ける毎日。正直、紗綾樺自身は、誰かの役に立つから仕事をしているわけではない。ただ、家に籠もって誰にも会わないという、自分に一番楽な生活をしていると、兄が心配するから、仕事を始めただけだった。
 もちろん、スピリチュアルな仕事に行き着くまで、他の仕事に就くことも挑戦はしてみた。しかし、残念なことにスピリチュアルな仕事以外、紗綾樺にできる仕事はなかった。兄に教えて貰い、履歴書なるものを作成し、面接に赴いてみたものの、面接は当然うまく行かなかった。なにを聞かれても、うまく答えることが出来ず、最後は『ご苦労様でした』と言われて追い出されて終わるだけだった。
 毎日、知らない誰かの未来を視るのは決して楽しい仕事ではなかった。楽しい未来は少なく、視るものは、大抵悲しいものだった。たぶん、自分に相談してくるお客達は、何か不安があるから未来を視手欲しいと思うのだと。だから、自分が視る未来が素晴らしいものであることは少ないのだと、紗綾樺も理解するようになっていた。それでも、一度仕事として選んでしまったのから、紗綾樺は努力して続けるようにしていた。
 しかし、最近は気分の乗らない日が多い気がする。
「やっぱり、今日は、お休みにしよう」
 紗綾樺は呟くと、再びゴロリと布団の上に横になった。
 見慣れた天井を見つめ、紗綾樺は大きなため息をついた。
 もしかしたら、宮部と深く知り合うようになったからかもしれない。そんな考えが紗綾樺の頭に浮かんだ。
 今まで、兄からは何度となく『嫌ならやめても良いんだ』と言われたけれど、ある意味、意地になって仕事を続けてきた気もする。しかし、紗綾樺の苦しみを自分のことのように苦しむ宮部を見ていたら、紗綾樺は苦悩する兄の気持ちをよりよく理解できるようになった気がした。そのせいか、あの本格的な捜査をした日から、一度も占いの館へは出向いていない。
 今の紗綾樺が知りたいことは、ただ一つ、行方不明の崇君が元気にしているのかどうかということ。どうしたら、誰も傷つかずに解決できるかと言うことだけに、紗綾樺の頭はとらわれていた。それ以外のことは、何も視たくなかったし、視たいとも思わなかった。

(・・・・・・・・崇君のお母さん、すごく心配していた。いまにも、命の炎が消えてしまいそうなのに。でも、もし、崇君が安全できちんとした誰かに育てて貰えると知ったら、お母さんも安心できるかもしれない・・・・・・・・)

 紗綾樺は考えながら、ゴロリと寝返りをうった。

☆☆☆

 今となっては完全に日課になっている紗綾樺の居場所を確認すると、俺はため息をついた。

(・・・・・・・・今日で何日目だ? 突然の爆弾交際宣言から一転、意地のように仕事に行っていたさやが仕事に行かなくなった。家でおとなしくしてくれているのは安心だが、なにを考えているのかんからない以上、不安は消えない・・・・・・・・)

 地図アプリを閉じると、俺はさやの携帯を鳴らした。
『はい』
 さやはすぐに電話に答えた。
「具合、悪いのか?」
『大丈夫だよ』
 感情のない声では、具合まではわからない。
「夕飯、食べたいものがあるか? さやが家にいるなら、好きなもの作るよ」
 俺が言うと、さやはしばらく沈黙していた。たぶん、思いつかないのだろう。いつものことだ。
『オニオングラタンスープ飲みたい』
 予想していなかったさやの返事に、俺はかなり困惑した。
 作って作れないことはない。だが、本当にそれがさやの望みなのかわからない。逡巡した俺は、仕方ないので言葉を継いだ。
「じゃあ、いつものファミレス行くか?」
『うん。それでいい』
「じゃあ、早く帰るから。支度して待っててくれ」
『わかった』
 さやの返事を聞いてから、俺は電話を切った。
 少なくとも、一緒に食事をすると言うことは、やはり出かける予定はないのだろう。
 あれだけ派手に交際宣言したのだから、別に俺に事前報告すればデートに出かけても良いというのに、あの男からは全く連絡がない。もしかして、さやの元気がないのは、奴にほったらかしにされているからなのかもしれない。だとしたら、俺がいきなりハードルを上げ過ぎたからかもしれない。もつと自由に会わせてやればよかったのかもしれない。
 考えても答えのでない事を頭の奥に押しやると、俺は足早にオフィスに戻った。
 今の俺は、かつてのような建築士じゃない。ただの派遣のアシスタントだ。上司に嫌われれば契約は短くなるし、時給の値上げ交渉も出来なくなる。
「すいませんでした。いま、戻りました」
 俺は上司に一声かけると、自席に戻ってエクセルファイルを開いた。建築物の安全性を検証するための細かい数値データがビッシリ書き込まれている。この数値が正しく入力されているかを確認するのが俺の仕事だ。例え、安全性の強度に問題があっても、指定された数値が正しく入力されていれば、その間違いを指摘する権限は俺にはない。あくまでも、検証する機関に送るためのデータを入力して完成させるのが俺の仕事だ。
 本当は、専門の建築から遠く離れた違う仕事に就くことだってできた。身に着けたCADの技術を生かせば、もっとバリバリ稼ぐことだってできる。でも、それではあの日と同じ、必要な時にさやの傍にいてやることができない。だから、俺はキャリアのすべてを捨て、定時で帰れる仕事を選んだ。
 俺は、黙々と設計図に記載されている数値データを指定されたセルに入力していった。

☆☆☆

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