黎明皇の懐剣

 ユンジェは二人のお荷物にならないよう、彼らの間を走りながら右の方向を見張っていた。左の方向はティエンが見張り、少しでもカグム達の目の代わりを果たす。

 今のところ異常はないが、向こうに見える光景は異常だった。
 兵同士が戦い、剣を突き合わせ、腕を、足を、首を落として、次の兵に向かっていく。倒れた兵を容赦なく踏み越え、新たな敵を討つ。絶え間なく聞こえる怒号、悲鳴、断末魔に苦しみ、うめき声。ああ、まさにここは地獄だ。

 ユンジェとて生きるために何人もの命を奪ってきたが、こんなに多くの苦しみや死を、かつて目にしたことがあっただろうか。

 狭い路を駆け抜ける。
 道すがら、どこからともなく放られた火薬筒が転がって来たので、前方を走るカグムが方向転換をした。

 狭い路でそれが爆ぜたせいか、硝煙が立ち込める。視界は悪くなるばかりだ。

 路から路に渡る時であった。広い路にいた数人の兵がユンジェ達の姿を捉え、持っていた槍の先端に火をつけるや、それを投げてくる。

 旅人に成り済ました刺客とでも思ったのだろう。

「避けろ、火槍兵(かそうへい)だ!」

 カグムが足を止めて振り返ってくるが、時すでに遅し。

 無数の槍が地面に突き刺さり、間もなくそれは槍ごと爆ぜた。火薬入りの竹筒がつけられた槍だったのだろう。
 さらにそれは発煙したので、視界が白煙で覆われてしまう。

 かろうじて槍を避けたユンジェが周りを見渡すと、どこもかしこも、白い煙で満たされていた。
 みなとはぐれてしまったようだ。
 微かにティエンの、カグムの、ハオの声が近くから、遠くから聞こえるが、火薬の音で掻き消されてしまう。

 分かることは一つ。各々みなを見失っている。


「ティエンっ、どこだ! ティエン!」


 ユンジェは焦った。
 カグムやハオは一人でもこの状況を乗り切られるだろうが、ティエンはそうもいかない。

 いくら弓の腕があっても、あの武器は遠距離戦を得意としているもの。近距離戦向きではない。剣で斬りつけられたら、彼は倒れてしまう。

(落ち着け。声が届かないなら、べつの物を利用すればいい)

 焦るな。自分に言い聞かせるものの、真後ろから剣のぶつかり合う音が、悲鳴が、断末魔が聞こえる。許されるなら、恐怖で叫び喚きたいもの。

(一か八か。届いてくれよ)

 ユンジェは頭陀袋から、鏡の破片を取り出すと、四方八方にそれをちらつかせた。
 これが鏡だと分かってくれたなら、鏡の光を返してくれるだろう。気付かなければ、ユンジェはとても危ない。これは仲間内にも届くが、敵にも届く。兵に目を付けられかねない。

 真横から槍が飛んできた。爆ぜるかもしれないので、ユンジェは急いでその場から逃げる。
    
 あちらこちらに鏡を向けていると、やや晴れてきた白煙の向こうで、鏡の光らしきものが二つ。
 目を凝らすと、それはティエンとハオであることが分かった。ユンジェの鏡の合図に気付いてくれたのだろう。

 ティエンの傍にハオがいることが分かり、ユンジェは胸を撫で下ろす。取りあえず一安心だ。
 否、その安心が絶望に変わる音を聞いた。

 本能が警鐘を鳴らしたことで、ユンジェは口に鏡の破片を銜えると、懐剣を抜き、常人離れした動きで彼らに迫る大きな黒い影へ向かっていく。

 それは所有者にとって色濃い災いであった。
 災いは馬に乗り、目につく兵を矛で串刺しにし、苦痛を上げている兵を馬で踏みつぶし、返り血を浴びて楽しげに笑っている者であった。
 誰かは残忍さに恐れ、誰かはその勇姿に喝采し、誰かは続けと鼓舞し、誰かは討てと言う。


「――さま。近くに馬の道を塞ぐ子どもがいます。落馬にはお気を付けて」


 騒音に乗って聞こえてくる、その一声に返事するように、「俺を誰だと思っている」と、白煙が切り裂かれた。それによって捉えることができる。
 臙脂(えんじ)の鎧を纏い、赤茶の髪を冑に収め、長く重たい矛を構えた男の姿を。
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