黎明皇の懐剣


 ◆◆


 はじめて戦と多くの死を見たせいか、ユンジェは椿ノ油小町を発って二日間、眠れない夜が続いた。
 眠らなければ体力が持たないと、頭では分かっているのだが、どうしてもあの地獄が目に焼き付いて離れない。

 ティエンも同じだったようで、夜になると寝がえりばかり打っていた。

 しかし、彼の方が先に限界がきたようで、今宵のティエンは深い眠りに就いている。指で顔を突いても微動だにしなかった。疲労も溜まっていたのだろう。

 対照的にカグムやハオは眠れているようで、日中も変わりなく過ごしている。
 幾度も戦を経験している彼らなので、面に出さないよう努めているのかもしれない。話す分には変わりがないように思える。カグムなんて友を失くしたというのに。

(みんな。寝たかな?)

 ユンジェは大人達が眠っていることを十二分に確認すると、ティエンを起こさないよう外衣から抜け出した。

 頭の上に置いている懐剣を手に取ると、忍び足でたき火から離れる。

 今宵の野宿場所は川のほとりなので、少し歩けば月明かりを浴びた川が顔を出した。

    
 振り返ってたき火の明かりが目視できることを確かめると、ひとり岩に腰掛け、川面を覗き込む。情けない顔を作る自分がそこには映っていた。

 両手で懐剣を持ち、そっと鞘から刃を抜く。
 美しい刃をしているそれは、刃毀(はこぼ)れひとつない。何度も人間の体を貫き、剣や槍を砕いているのに。

(頭が痛いなぁ。目も重いなぁ。寝ていないせいだろうなぁ)

 そんなことをぼんやりと思って、投げ出す足をばたつかせていると、うなじにちくりと痛みを感じた。
 それが冷たい刃先だと気付くのに、数秒遅れた。

「まったく。相変わらず、自分の危機感知は人並みだな。ユンジェ、勝手な行動を起こしてくれるな。賊に襲われたらどうする。戻るぞ」

 声でカグムだと分かった。
 ちゃんと寝ているところを確かめたのに、音を立てないよう気を遣ったのに、それでもつけて来るなんて。さすがだとしか言いようがない。

 月明かりに反射する川面を見つめ、ユンジェはかぶりを横に振った。今は一人になりたいと小声で返す。
 ちゃんと明け方には戻るから、そう伝えると、カグムが太極刀を鞘に収めた。

「隣いいか?」

 だめと言ったところで聞いてもらえないだろう。雰囲気で分かる。ユンジェは少しだけ右にずれた。

 隣に腰掛けてくるカグムは、ユンジェの眺めている川面を見つめると、「眠れないのか」と尋ねた。
    
 この二日まともに寝ていないだろう、と指摘されたので、力なく笑ってしまう。何もかも見通されている。

「はじめて戦を見たんだ。眠れないのも仕方がないさ。あれに恐怖を感じない人間はいない。俺もそうだった」

 頭に手を置いてくるカグムに、ユンジェはしばし間を空けて答えた。

「……俺さ、人間じゃなくなってきているんだ」

 カグムにぽつり、と吐露する。
 その意味を問われたので、ぽつぽつと返事した。

「今まで懐剣を抜く度に、恐怖心を忘れていたんだけど。あの戦で、懐剣を抜いたら心が空っぽになったんだ。恐怖も、悲しみも、苦しみも、分からなくなっちまった」

 ティエンに呼ばれるまで、彼に手を差し出されるまで、まったく心がふるえなかった。
 近くにいたカグムやハオが遠いものに思え、何も感じることができなかった。心配すら寄せられなかった。

 それが怖くなり、あれこれ考えている内に、眠れなくなってしまったのだとカグムに伝える。

「そんなこと、今までなかったんだ。主従の儀を受けてから、少しおかしくなったのかもしれない」

 ユンジェはセイウと主従の関係にある。
 少し前に主君から懐剣となれ、人の心を捨てろと命じられたので、本能がそれに応えようとしているのかもしれない。


 だとしたら、ユンジェはいずれ人間の心を失ってしまう。

    
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