黎明皇の懐剣


 カグムはとても面倒見の良い男であった。

 ティエンに会いたがるユンジェの気持ちを汲み、彼の分まで話し相手になってくれた。そのおかげで幾分、心は軽くなったが、彼を心配する気持ちは変わらない。

 一目だけでも会わせてもらえれば、心配する気持ちも軽減するのに。

 また、ユンジェ自身も怪我人だ。
 長い時間は起きていられず、人目を盗んでティエンに会いに行くこともできない。

 行動を起こしたところで、動きの鈍い体では、天幕の前で見つかるのが関の山だろう。

(……ティエン。本当は怪我が酷いんじゃ。命に別条はないって言ってたけど)

 床に入る度に、ユンジェは暗い思考に襲われてしまう。今も瞼の裏に焼きついている。ティエンが己を庇う、痛々しい光景を。

 あの時、注意を払って吊り橋へ向かうべきだったのに、ユンジェはそれを怠ってしまった。
 どうして、もっとよく考えて動かなかったのだろう。あれは回避できたことなのに。

 ああ、吊り橋が見えたことで、気持ちが先走ってしまった。出口がそこにあると、気が緩んでしまった。それがこの結果だ。

 危機感が足りなかった自分に、嫌悪したくなる。ティエンが怪我を負ったのは自分のせいだ。

 あそこの判断さえ間違えなければ、彼は傷を負うことがなかった。タオシュン達に捕まることもなかった。痛い思いをさせなかった。

(ごめん。ティエン。本当にごめん)

 押し潰されそうな孤独に耐えるために、ティエンの懐剣を腕に抱く。

 けれど、それを見る度にタオシュンの首を躊躇なく刺した、非道な己が蘇ってくる。

 ユンジェはまた罪を犯してしまった。
 あの男は血しぶきを上げながら大刀を振っていたが、あの後どうしてしまったのだろう。死んでしまったのだろうか。

 相手はティエンに苦しみを味わわせようとした、外道畜生だ。同情する余地など何処にもない。分かっている、分かっているのに。

(変だよな。襲われたのは俺なのに、心苦しい思いをするのも俺なんだから)

 追い剥ぎも、タオシュンも、殺意を持って襲ってきた。

 ユンジェはそれから逃げようと必死であった。生き延びようとした。その結果が人殺しだなんて、まったく笑えない。


(……俺、ろくな死に方しないな。それでもいい。天に裁かれてもいい。ただ、ティエンは取り上げないで欲しい。(じじ)の時のように、あいつまで取り上げないで欲しい。それをされるくらいなら、この身に裁きを受けたい)


 ユンジェは懐剣を腕に抱きなおすと、浅い眠りに就く。

 彼が目を覚ましたら、たくさん話したいことがある。謝罪したいこともある。この懐剣や麒麟、王子についても、彼から聞かなければ。

(はやくティエンが目を覚まして、元気になりますように)

 遠のく意識の中で、ユンジェは強く願った。






「――……だっ! ……いない……王子っ! ……誰かっ!……」


 ようやく眠りが深くなり始めたところで、ユンジェの意識が浮上する。
 天幕の外で、何やら騒がしい声が聞こえる。まだ夜明け前だというのに。もしや敵に居所がばれてしまったのだろうか。

(むり。起きれねーよ)

 騒ぎを知りたい好奇心はあるが体は痛く、重たく、まるで鉛のよう。
 まだ眠っておきたい。誰かが起こしに来るまで、もうひと眠りしよう。非常事態であれば、誰かが来るだろう。ユンジェはゆるりと瞼を閉じた。

 ふっと腹を優しく叩かれる。

 それは昔、よく(じじ)にしてもらったこと。ユンジェが怖がったり、怯えたり、不安になると、いつも腹を叩いてあやしてくれた。

 これは夢だろうか。いや違う。優しいぬくもりが、ここにある。

 目を開け、急いで顔を持ち上げた。
 小さな笑声が聞こえたと思ったら、いたずらっぽく髪を撫ぜられる。その笑い声には、しっかりと音があった。聞き慣れたものであったが、よく耳にしていた、掠れるばかりの笑い声ではない。

 高くも低くもない、安心する声の正体を知るべく、体を起こす。

「てぃ、えん?」

 その正体は、彼であって欲しいと願った。
    
< 33 / 275 >

この作品をシェア

pagetop