黎明皇の懐剣


 好きで泣いたわけではない。あれはティエンが悪いのだ、いや、自分が悪いのだろうか? とにかく、それについては触れられたくない。

 ティエンが笑いを噛み殺してくる。ユンジェの気恥ずかしい思いを見抜いているのだろう。嫌な男だ。
 ムキになって湯飲みを奪うと、それを一気に飲み干した。

「どうだ?」

「……とても不思議な味がする」

 まずいとは言わないが、美味しいとも言えない。初めての味だ。率直な感想を告げ、ティエンにこれの正体を尋ねる。

「それはな。銭を煮詰め、花で香りづけした汁なんだ。高価な味がするだろう?」

「ええ? お金って飲めるの?」

 ユンジェは空っぽとなった湯飲みを凝視する。銭を煮詰めるなど、聞いたことも無い。

「と、言ったらどうする?」

「はあ? ……お、お前っ、からかいやがったな!」

「ふふっ。ユンジェは素直な反応してくれるから、とても楽しいな」

 思惑通りにいったことが、嬉しくて仕方がないのだろう。ティエンは肩を震わせている。
 この男、口が利けない時は慎ましい人間として振る舞っていたくせに、声が戻った途端これだ。彼は思った以上に、いたずら者なのかもしれない。

 白目を向けるユンジェに、彼は今度こそ答えを教えてくれた。

「お前がいま、飲んだのはお茶だ。それは茉莉花(ジャスミン)茶という」

 お茶は贅沢品である。ユンジェは感嘆の声を上げた。

「へえ。これがお茶なのか」

 お茶っ葉の存在は知っていたものの、飲み物としてお目に掛かるのは初めてだ。

 農民の大半は水を一度沸騰させ、それを冷まして飲むが主流なので、まずお茶に触れる機会がない。お茶っ葉を買うくらいなら、米や塩を買っている。

 これはティエンのお気に入りだそうだ。一日一回は飲んでいたという。
 すごいな、とユンジェは思った。毎日お茶が飲めるなんて、相当な金持ちだ。王子だから飲めるのだろう。

(そうだ。今度こそ、ティエンのことを聞かなきゃ。懐剣のことも)

 束の間のこと。

 ユンジェは持っていた湯飲みを取り上げられ、強引に寝かしつけられる。説明が欲しいところであったが、衣を掛けてくるティエンの目を見て、ゆるりと瞼を閉じる。

 天幕の入り口から人の気配を感じた。誰かが入って来たようだ。

「ピンインさま。間もなく夕餉のお時間となります。その前に、包帯のお取替えを」

 カグムの声だ。

「後でユンジェに手伝って頂きます。お気遣いなく」

 驚くほどティエンの声は硬く、冷たく、棘があった。

 ユンジェは薄目を開ける。

 とりわけカグムに警戒心を抱いているようで、少しでも彼に動きがあると、ティエンの凍てついた眼光が鋭くなる。目は訴えていた、近付くものなら命は無い、と。

 対照的に、カグムは弱り果てているようだ。小さなため息が聞こえる。

「その子どもは、まだ眠っておられるのですか?」

「ユンジェは疲れているのです。そっとしておいて下さい」

「まことの話であれば、そのように致しましょう」

 断言していい。カグムはユンジェの狸寝入りを見抜いている。含みある返事が、揺るぎない確信を宿している。

「用件は御済みでしょうか? そうであれば、ご退室をお願い致します。夕餉の刻まで、体を休めたいものでして」

 言葉は慇懃(いんぎん)丁寧であるが、ティエンは早く出て行け、と遠回しに、カグムを邪険している。

 彼のことが嫌いなのだろうか。
 ユンジェはカグムに世話を焼いてもらったので、複雑な気持ちになってしまう。

「僭越ながら、進言させて頂きます。やはり王族の貴方様の隣に、農民の子を寝かせるというのは如何なものかと。他の者も困惑しております」

 と、カグムがティエンに意見する。それはユンジェに深く関わるものであった。

「その子どもは、王族と同じ枕の高さで寝られるようなご身分ではございません。いま一度、考え直して頂けないでしょうか?」

 ユンジェには、王族の身分とやらがよく分からない。
    
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