黎明皇の懐剣


 事態が急変したのは、夜明け前のこと。

 男の手を握ったまま眠りこけていたユンジェは、強い引きによって、浅い眠りから目を覚ます。重たい瞼を持ち上げると、繋いでいた手を振り払われた。

 顔を上げると、あの男が目を覚ましていた。
 黒真珠のような瞳がユンジェを捉えると、眼を見開き、口を開閉して叫んでいる。正しくは叫んでいると思われる。

 実際は擦れる音ばかりで声が出ていない。

「あんた、声が出ないの?」

 動揺している相手に、ゆっくりとした口調で話しかける。本当はユンジェだって、何かしらの感情を表に出したいのだが、男がこんな調子だ。それはできそうにない。

 男はますます動揺し、混乱したように両の手で喉を押さえた。声を出そうと腹に力を入れ、頑張っているようだが、やはり音は擦れている。

「無理に声を出さない方が良いよ。喉を痛めるから」

 手を伸ばすと、男は酷く怯えた。寝台から飛び退き、四隅に逃げる。そして、ユンジェと距離を取り、懐から何かを取り出そうとした。それも衣が違うことで青い顔を作る。
 男の鋭い睨みが飛んできた。所持品を盗んだと勘違いしているようだ。

 だったら、最初から追い剥ぎをしている。


(助けたのに疑われるなんて……)

 確かにユンジェは、常にお金がなくて困っている。食べ物だって、十分に調達できないことが多い。

 けれど、盗みを働いたことは無かった。
 過去に一度だけ【大きな過ち】を犯してしまったことはあったが、それをのぞけば、まっとうな道を生きてきたつもりだ。

 男の衣を取りに行く。ユンジェなりに丁寧に畳んでいたつもりだが、様子を窺う男の眉はつり上がっている。不満のようだ。

「はい。これ」

 寝台に衣を置く。その上に、彼の所持品を置いた。
 男は懐剣を探していたのか、それを見るや、ユンジェに捨て身でぶつかってきた。

「いて!」

 床に倒れ、後頭部を強打するユンジェの上に、男がのしかかる。そして、いとも簡単に鞘から刃を抜いた。びくともしなかった、あの懐剣を抜き、鋭い刃を振りかざしてくる。
 男はユンジェを殺すつもりなのだろう。

(なっ、なんでこんなことにっ)

 とんでもないことになってしまった。親切心で助けたら、恩を仇で返されてしまうとは。

 いや、それとも、『これが』男の使命なのかもしれない。

 天は見ていたのだ、ユンジェの罪を。それを裁きに来たと言うのなら、ユンジェは覚悟を決めなければいけない。
    

 怖くて目を瞑った。殺されると分かった瞬間、体が小刻みに震えた。身を小さくし、心の中で祈った。どうかたてせん(じじ)の、両親の下に逝けますように、と。

 しかし、待てども待てども痛みがこない。

 ユンジェは恐る恐る瞼を持ち上げる。
 途方に暮れた眼と、視線がかち合った。死を恐れる自分と同じように、男も何かを恐れ、体を小刻みに震わせている。
 振り上げた懐剣を胸元まで下ろす、男の姿を目にしたユンジェは、勇気を出して声を掛けた。

「あんた、腹は減ってないの? 三日も寝ていたんだ。ひもじくない?」

 ありふれた言葉しか思い浮かばなかった。
 本来であれば、「殺さないで」とか、「助けて」とか、「許して」とか、そういった単語を口にするべきだろう。正直なところ、ユンジェ自身も、酷く動揺しているのである。

 すると。男が懐剣を落とす。
 ユンジェから退くと、両の手で顔を覆い、その場にうずくまった。幾度となく聞こえてくる擦れた音に、洟を啜る音、額を床に打ちつける音。

 男は慟哭(どうこく)していた。
 よほど悲しいことがあったのか、怖い思いをしたのか、指の隙間から涙を零し、声なき声で泣き喚いている。

 呆然としていたユンジェだが、徐々に冷静を取り戻すと、男の傍らで両膝をついた。

「大丈夫。もう、大丈夫」

 背中を擦り、(じじ)がいつも、唱えてくれた呪文を男に掛けてやる。一層、擦れる音が強くなる。男は腹の底から叫び、悲しみ、喚いているのだろう。

 ユンジェは男が落ち着き、眠りに就くまで、ずっと(じじ)の教えてくれた呪文を口にしていた。

 何故だろう。
 男の方が年上な筈なのに、ユンジェの方が兄になったような気分だった。
< 5 / 275 >

この作品をシェア

pagetop