黎明皇の懐剣


「ただいま。いま、帰ったよ」


 ユンジェが帰宅したのは、あくる日の夕方のこと。
 腹を空かせていたのか、男はいつにも増して、帰宅する自分を睨んでくる。しかし、それも、すぐ驚愕に変わってしまう。男はユンジェの身なりに、目をひん剥いていた。

 対照的にユンジェは、決まり悪く腕を擦る。

「ごめん。獣を狩ろうとしたけど、全然獲れなくてさ。物々交換ができなかった」

 更に足を滑らせ、崖から転げ落ちてしまった。その上、頭をぶつけて気絶してしまったのだから、とんだお笑い種だ。踏んだり蹴ったりである。


「あ、明日はちゃんと獲ってくるからさ。今日は……芋粥で我慢してくれないか?」


 腫れている右頬を隠すように背を向ける。
 ユンジェは気恥ずかしかった。男に腹いっぱい米を食べさせると宣言していたのに、こんな結果で終わってしまうなんて。ああ、大見得を切るのではなかった。

(自信はあったのになぁ)

 不貞腐れたいような、泣きたいような、そんな気分だ。
 ユンジェは男が癇癪を起こさないよう、次の手を打った。

 彼に近付くと寝台の上に、笹の葉に(くる)まった桃饅頭を置く。

 子どもは甘いものが大好きだ。男も子どもっぽいので、これを食べれば、芋粥も我慢して食べてくれるとユンジェは考えた。

「桃饅頭。美味いと思うぜ」

 すると、それまで睨んでばかりの男が、はじめて別の顔を見せた。戸惑ったように自分の髪を抓み、哀れみの目を向けてくる。
 言いたいことが分かったユンジェは、うなじをさすって苦笑いを浮かべた。

「時間を掛けて育てた野菜を売るより、何もしなくても伸びる髪の方が高く売れるって悔しいよな」

 狩りに失敗したユンジェは、その足で町へ向かった。
 桃饅頭はおまけで、目的は塩や油を買うためだった。

 男が家に転がり込んでからというもの、生活物資の減りが早い。今日買っておかなければ、明日困るものばかり足りなくなっていた。

 背中まで伸ばしていた髪を切るのは名残惜しかったが、遅かれ早かれ金の足しにするつもりだった。髪はまた伸ばせばいい話だ。

「腹減っただろ? それでも食べて、気長に待っててくれよ」

 桃饅頭を一瞥すると、ユンジェはそそくさと寝台から離れる。

 甘味が好きなのは自分も同じだ。想像しただけで唾液が溜まる。

 けれど、一個しか買えなかった。

 二個分の金がないわけではなかったが、ユンジェは今後の生活を優先した。桃饅頭を買うくらいならば、塩や油を買った方がいい。そう何度も自分に言い聞かせた。

(……なんで、俺がここまで我慢しなきゃならないんだろう。間違っている気がする)

 片隅で疑問に思ったが、仕方がないと言い聞かせた。男の癇癪の方が面倒なのだから。
 出来上がった芋粥を持って、男のいる寝台に戻る。桃饅頭はそのままにされていた。

「あれ、なんで食べていないの?」

 桃饅頭が嫌いなのであれば、喜んでユンジェが食べるつもりだ。
 それとも、口直しのために取っているのだろうか。ああ、きっとそうだ。男は芋粥を、汚物を見るような目で見てくるのだから。

 芋粥を桃饅頭の隣に置く。
 離れようとしたところで、男に腕を掴まれた。ユンジェは驚いてしまう。苦情を言われても、今日は芋粥しか出せないのだが。

「え? 座れって?」

 男はユンジェの腕を引き、座るよう態度で促してくる。仕方がなしに、寝台の縁に腰を掛けると、彼は懐剣を抜いた。

 まさか切られるのか。

 心中でハラハラするユンジェを余所に、男は笹の葉を開き、それで桃饅頭を半分に割った。片割れを差し出される。

「……俺にくれるの?」

 顔を出している白餡と、彼の顔を交互に見やっていたユンジェだが、やがて頬を緩めると、有り難くそれを受け取った。
 勘違いでなければ、男は一緒に食べようと誘ってくれているのだろう。くすぐったい気持ちになる。
    
< 7 / 275 >

この作品をシェア

pagetop