黎明皇の懐剣


 その先に見えるものは、深い混沌。稲光が絶えぬ雷雲が漂うとこであった。
 ごうごうとうねる天の向こうで、怒り狂った獣の声が聞こえる。不協和音の鳴き声は咆哮するティエンと重なり合い、新たな声となった。


 声は大地を震わせ、桑畑を揺らし、その場にいる者どもに畏れさせる。


 ああ、耳をすませると聞こえてくる。

 それはティエンの声、それに重なった天の声――我、決して血を好まず。我、決して殺生を好まず。我、決して驕傲(きょうごう)を好まず。哀れ地を這う者よ、天の声聞こえぬ者よ、仁愛の御心を忘れた者よ。


「穢れた御心なんぞ、その身共々亡びるがいい。凶禍福の運命を背負う天の子は、お前を決して許しはせぬぞ」


 咆哮が途切れ、憎しみに溢れた言葉が、ティエンの口から迸る。
 驚くほど、彼のかんばせは花が咲いたように、美しい笑顔となった。黒い真珠のような瞳が、仄かに黄金色(こがねいろ)となる。

 天から稲光が落ち、それはティエンを囲む男共の視界を奪った。近付くことすら許されない。天は男共に、そう告げているようにみえる。

「どけ。邪魔だ」

 もはや彼の目は、リオを捕らえる賊しか見えていない。短剣を逆手に持つと、囲んでくる馬達に道を開けるよう命じ、地を蹴って駆け出す。

 そして獣達は彼の言葉通り、恐れおののきながら、ティエンのために道を開けた。

 賊達が手綱を引き、それを止めようとすると、揃いも揃って乗り手を振り落とす。馬に踏まれ、悲鳴を上げる者もいた。

 そんな人間なんぞ脇目に振らず、ティエンは飛躍して短剣を横一線に振った。短い刃は間合いを取るのが難しく、それは賊には届かない。

「彼女を返せ」

 なのに、彼は怯まず垂直にそれを振り下ろして、賊を討とうとする。弓の方が得意なくせに、短剣で仕留めようとする。
 弱者から強奪しようとする悪意ある人間を、彼は決して許そうとはしない。

 思いが彼に力を与えているのか、普段はもっぱら足が遅いというのに、今の彼はネズミのようにすばしっこい。

 その気迫に押された賊は、物の見事に顔を引き攣らせている。
 一振りでも当たれば、命が無くなると思っているのか、避ける動きは大振りであった。少しでも当たりそうになると、柳葉刀で短剣の刃を受け流す。

 賊が反撃を試みようとすると、担がれたリオが四肢を動かし、時に相手に噛みついて、間接的にティエンを援護する。
 彼女もまた涙目になりながら、よくも旦那を、友を、と悔しそうに下唇を噛みしめ、賊の体を何度も拳で叩いた。

「加勢しろ!」

 その声で、仲間の賊が駆け寄って来る。
    
 しかし、ティエンの目はやはり、リオを捕らえる男一点に絞られていた。背後を取られようが、見向きもしない。
 ようやく、その存在に気付いても短剣を振り、距離を取って終わった。




「まずい。とてもまずいぞ」

 ユンジェを腕に抱えるジセンは、焦燥感を抱く。

 彼は気付いていた。
 いまのティエンは完全に頭に血がのぼっていることを。彼はユンジェの仇を取ろうとしている。それだけ、彼にとってこの子が大切なのだ。

 いやジセン自身も、冷静ではいられない。
 大切な嫁が人質に取られているのだ。早いところ手を打たなければ。こんな時、膝が悪くなければ、と強く思う。

 弱々しいうめき声が聞こえる。ジセンは傷付いたユンジェに、何度も呼び掛けて反応を窺う。

「ユンジェ。しっかりしろ。僕の声が聞こえるかい?」

 うつらうつらと頷く彼は、微かに意識を残しているようだ。

 懸命に傷口を押さえる。けれど一向に血は止まらない。己の帯を解いて、肩口をきつく縛るが、これもどこまで持つか。

 新たな馬の足音が聞こえた。
 ああもう、次から次へと、今日はとても忙しい。いつもは誰も養蚕農家に近付かないくせに、今度の客は誰だ。

 ジセンが視線を配ると馬が二頭。松明を持った乗り手の一人が、ティエンを指さした。


「いたぞハオ、ピンインさまだ! やはり天の割れ目の下にいらっしゃっ……なんだ。この状況は」


 乗り手、謀反兵のカグムが馬から降りたので、ジセンが声を掛ける。

「初対面の君とお茶を飲み交わす時間は無い。けれど、ティエンを知っているのなら、話は早い。彼を止めてくれ。あのままでは、やられてしまう。そしてどうか嫁を、僕の嫁を助けてくれ」

「貴方は……ユンジェっ!」

 カグムが片膝をつき、持っていた松明をジセンに押しつけた。

「こりゃひでぇ。深く肩を斬られている。ハオ、お前はユンジェの止血をしろ。こういうのは、お前の方が得意だろう。俺はピンインさまを止めてくる」

 遅れて馬から降りたハオがカグムと入れ替わり、急いで衣を短剣で裂いた。

「ほんっと、来て早々なんだってんだ。しかも、クソガキがやられてるなんざ、異常だろう。ガキでも麒麟の使いだろうに」

「助かるかい?」

「分からん。どれだけ血を流しているかにもよる。くそ、無駄に逃げ足は速いくせに何してやがる。もう少し、手元に明かりを寄せてくれ。見えん」

 どれだけ血を。
 そんなのジセンにも分からないが、一目でおびただしい量の血を流していることは分かる。ああ、自分を助けようとしたばっかりに、こんなひどい傷を。

「ユンジェ。どうか頑張ってくれよ。君がいなくなったら、ティエンは一人になってしまう。彼を一人にしないでおくれ」

      
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