白貝と柏木
01
高校二年の四月の終わり。

黒板に書かれた数式はもはや意味不明だった。
数学は元々苦手だったけど、2年になってますます難しくなった気がする。

もういっそハンカチふって見送ることにしよ。サヨナラ数学。テストは鉛筆でも転がそう…。

投げやりな気持ちになって、小さく溜息を吐いて頬杖をついた。

つまんないなぁ…。

数学は理解不能だし、唯一の友達、瑠璃ちゃんとは違うクラスになっちゃったし…。

教室の窓は全て開いていて、外からそよ風が吹く度にクリーム色のカーテンがぱたぱた揺れている。

窓の外に目を向けると、すっかり葉桜になった桜の木が見える。

満開の桜の花もいいけれど、初夏の訪れを感じさせる緑の葉もいいなぁ。

今日の空は快晴で、気温も高い。
思わず頬が綻ぶ。
もうすぐ5月。梅雨が明ければ夏。
季節が夏に近づくと、それだけで嬉しくなるから不思議だ。

あんまり窓の外ばかり見ていると先生に見つかっちゃう。
そろそろ黒板に向き直って考えてるふり再開しないと。

視線を戻そうとしたそのとき、私以外にも窓の外を見てる子がいることに気がついた。

窓際、私の左斜め前の席。

広い肩、大きな背中、短く切り揃えた黒髪。
頬杖をついて、切れ長の目が窓の向こうをじっと見つめている。

誰だっけ。
なんて名前だったかな。

2年になってもうすぐひと月経つのに、未だにクラスメイトの名前を覚えてないことに我ながら呆れる。

昔から、他人の名前と顔を覚えるのが苦手だった。
瑠璃ちゃんに言わせれば、私は興味がないものはアウトオブ眼中らしい。確かにその通りだ。

何を見ているんだろう?

もう一度窓の外の景色を見てみるけど、特に変わった様子はない。

よく晴れた青空?それとも桜の木?
その席からしか見えないものでもあるのかな…。

もしかして特に何かみてるわけじゃないのかもしれない。
私と同じでぼーっとして現実逃避してるだけかなぁ…?

彼が一体何を見ているのか、それとも見ていないのか、わからないけれど、私は彼の横顔から目が離せなかった。

何を見てるの?

できることなら直接彼に聞いてみたい。
他人にこんなに興味を持つのは初めてだった。

教室の雑音が全部遠のいて、写真のピントを合わせるときみたいに周囲はぼやけて彼だけがくっきり鮮明に見えた。

なんだろう、これ。

どうしてこの子だけこんな風に見えるんだろう。
どうして私はこの子の名前が知りたいんだろう。
その目が何を見てるのか気になるんだろう。

授業も忘れてその日は放課後になるまでずっと彼の横顔や後姿を眺めていた。

これが何なのか、説明しようとしてもできない。

16年の人生で初めての経験だった。

一つだけはっきりしていることは、これが私にとっての始まりってことだった。

何の始まり?

それはまだ、私にもわからないんだけれど。

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