赤ずきんと気弱な狼さん
〈成人の儀〉
「どうしたの、アレクシス」
 赤ずきんが顔を覗き込んできたので、アレクシスは目を見開きました。
「お腹でも痛い?」
「いや…」
「暗い顔をしているわ」
 おばあさんの家に遊びに行った次の日も、二人は森で会っていました。赤ずきんがどうしてもとせがんだのです。
 透き通った池のほとりに二人は並んで座っていました。
「私の話、つまらない?」
「…そんなことはない」
 アレクシスは微笑んで見せます。その言葉は本当です。赤ずきんとは不思議と趣味が合い、好きな本や音楽の話はこれ以上なく楽しいものでした。…けれど今の彼の心中は穏やかではありません。
 明日はいよいよ成人を迎える日―――恐ろしい儀式を決行しなければならない日です。
「なら、どうしたの狼さん」
「…」
 アレクシスの胸はキリキリと痛みました。今初めての痛みではないのです。幼い頃から、ずっとずっと痛かったのです。
 もうこれ以上は耐えられないほど追い詰められていたことに、彼は初めて気付きました。
「赤ずきん…」
「知らなかったのね…、あなたずっと哀しそうだった」
「わたしが…?」
「そう。昨日、初めて顔を合わせたときから」
 赤ずきんがアレクシスに少し身を寄せると、彼女の金の前髪に反射した陽の光がきらりと光りました。
 眩しくて、アレクシスは目を細めます。
 そして、おもむろに胸のつかえが口を突いて出てきたのでした。
「わたしの一族には、王の後継者が成人を迎える際に行わなければならない、恐ろしい儀式があるんだ」
「うん」
「その…、口に出すのもはばかられるんだけど…」
 アレクシスが言いよどんでも、赤ずきんは辛抱強く待ちます。
「ひとを…、人間を殺さなければならないんだ。〈成人の儀〉といって…」
「そうなの…」
 赤ずきんは頷きます。
「どうして殺さなければならないの?」
「強さの証を立てるため」
「どうして人間を殺すと強いということになるの?」
 アレクシスはかねてより言い聞かせられてきた一族の言い分をなぞります。
「森の動物たちがもっとも恐れている存在が人間なんだ。その人間たちから恐れられることで、動物たちもわたしたちの一族に畏怖を抱く」
「畏怖…」
「それによって森を支配する。わたしたちはずっとそうして生きてきたんだ」
 アレクシスのしぼんだ尻尾を赤ずきんは見つめます。
「それで…、アレクシスは王さまの後継者なのね」
「…そうだ」
 アレクシスは赤ずきんから目を逸らしました。彼女の表情を見ているのが怖くなったのです。
「その〈成人の儀〉を行わないとどうなるの?」
「ひとつは、王になれない」
「それで一族から追い出されるとか?」
 赤ずきんの言葉にアレクシスは首を横に振ります。それだけならばとうの昔に出奔しています。
「自害を選ばなければならないんだ」
「…」
「成人を迎える朝、後継者は選択させられる。〈成人の儀〉を行うか、毒の杯をあおるか」
 赤ずきんは初めて押し黙りました。混乱しながらもなんとか言葉を紡ぎます。
「どうして…、死ななければならないの」
「見せしめということだろう。おそらく、わたしのような情けない後継者は過去にもいただろうし、この先にも生まれる。しかし命がけとなれば彼らとて手を汚す」
 一族の者以外にこのような話をするのは初めてでした。なによりアレクシスにはこれまで胸襟を開く相手がいませんでした。
「なにそれ…、みんなを脅かすことでしか成れない王さまなんて、やりたい人がやればいいじゃない。そんな、優しい人に無理矢理…」
「直系を望むんだ」
 赤ずきんと目を合わせないまま、アレクシスは呟きます。
「単なる力比べにしてしまうと、一族の内部が乱れるからだろう」
「…」
 風がそよぎ、池に波紋が刻まれます。草花も揺れ、小鳥たちは頭上で歌います。
 平和な光景でした。
「逃げなよ、アレクシス」
 赤ずきんが言いました。
 アレクシスの耳はぺたりと伏せられています。目は相変わらず赤ずきんとは別のほうに向いています。
「アレクシス」
 赤ずきんは焦れたように彼の頬に手を当てました。力いっぱい、両手でこちらを向かせます。
「赤ずきん…」
「あなたの辛い顔、見たくない」
 赤ずきんが言った瞬間、アレクシスの中で突然なにかが切れました。衝動のままに低いうなり声を上げて、赤ずきんの唇にかじりつきます。鋭い牙が当たって赤ずきんは小さな悲鳴を上げました。
「す、まない…」
はっとしてアレクシスが怯えますが、赤ずきんは彼を放しません。
「やめないで」
 今度は彼女が口づけます。
 彼女は知りません。
 〈成人の儀〉を厭って後継者が逃げれば、その側近が殺されるのです。
 アレクシスは頭に血が上って彼女のスカートの下に手を潜り込ませてドロワーズを掴みました。赤ずきんは抵抗しません。
 それでも彼は寸でのところで震える手をなだめ、赤ずきんから身を離したのでした。
「…よかったのに」
 ぽつりと赤ずきんが呟きます。しかしすぐに顔を上げると、優しい手つきでアレクシスの頭を撫でました。
 少し触れた彼の耳は柔らかで温かく、小さく震えていました。
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