【長編】戦(イクサ)林羅山篇
遁甲の極意
「遁甲…。明に伝わる遁れる兵法
のことか」
「そうにございます。遁甲の極意
は攻めにあります。死を覚悟して
一歩も退かず、攻め続けるように
見せかけることこそ遁れやすくな
るのです」
「しかし遁甲というのは変貌自在
な陣形のこと。こたびのことにど
う関係していると言うのじゃ」
「確かに明で伝わっている遁甲は
そうですが、信長公がそれとは
違った遁甲を実践されておりま
す。大御所様も付城はご存知で
は」
「おお、知っておる信長公はよく
敵の城の周りにいくつも砦を造り
城を囲っておった」
「そうなのです。信長公は領地の
周りに多くの敵をかかえ、それを
一度に相手にされていました。そ
の時に付城をそれぞれの敵の城に
造り囲います。大事なのはここか
らで、それぞれの付城には多くの
兵がいるようにみせかけ、その
実、大半の兵は別の戦場に駆けつ
けて戦い、すばやく移動すること
にあります」
「そうじゃそうじゃ。信長公はそ
のような戦い方をされておっ
た…。そうか、それを実際にやっ
ておったのは秀吉公ということ
か」
「そうにございます。秀吉公はい
かに早く付城を造り、瞬時に移動
するかを考える役目にございまし
た。皮肉なことにそれがいかんな
く発揮されたのは秀吉公が備中の
高松城を水攻めにしていた時に起
きた本能寺の変にございます」
「ふむ、そう言われれば、あの時
の秀吉公の京に退きかえす早さは
まさに付城の戦い方と同じじゃっ
た。それにあの時は毛利と勝ちに
等しい和睦をした上での帰陣
じゃったと聞いておる。秀吉公は
摩訶不思議なことをやるお方じゃ
と恐れをなしたものじゃ」
「それこそが遁甲にほかなりませ
ん。秀吉公は有利な和睦を進めて
いる間に、大半の兵はすでに京に
向かわせていたのです」
< 59 / 259 >

この作品をシェア

pagetop