ハニートラップにご用心

「さ、会社に戻りましょうか」


何も言えずに私が土田さんをじっと見つめていると、彼は少しだけ不思議そうに首を傾げていつものようにふにゃりと微笑んだ。

先ほどのクールな営業用の表情との変化の大きさに驚いて思わず思ったことをそのまま口に出していた。


「土田さんって、多重人格なんですか……?」


口にしてから瞬時に変なことを言ってしまったと私は内心焦るけど、土田さんの反応は案外さっぱりしたもので、目を丸くしてぱちくりと何度か瞬きをしてから、私の額を軽く指先で弾いた。


「もう、そんなわけないじゃない」


突然何を言い出すんだと言わんばかりに土田さんは口元に手を当てて、肩を震わせながら控えめに笑い声を上げた。


「だって取引先の人の対応と、職場の人と家での対応があまりに違いすぎます……」


私がそう言って土田さんを見上げると、彼は少しだけ困ったように笑って私の唇に人差し指を軽く押し当てた。


「誰にだって色んな一面があるものでしょ?」


色気を孕んだ黒い瞳が真っ直ぐに見つめてくるから、どうしたらいいかわからなくて視線を下に逸らすと、唇に触れていた指先がゆっくりとした動作で離れていった。

頬が熱を持っている気がして顔を上げられずに立ち止まっていると、土田さんは私を置いて先を歩いてしまう。


「……アタシはね、この方が生きやすいから」


少しだけ寂しそうな声でそう言った彼に弾かれるように顔を上げると、既にこちらに背を向けてしまっているのでその表情は確認できない。


何歩分か空いてしまった距離を詰めるために慌てて駆け出して、土田さんの隣を歩く。

横目でちらりとその顔を確認してみたけど、寂しげな色はなく既にいつもの柔らかな表情に戻っていた。

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