いつか羽化する、その日まで
・・・・・

「……ずるい」


少しだけ後ろを歩く。
ゴロゴロと転がるキャリーケースの車輪を見つめながら。


「この世界、ズルくてなんぼだからね」


振り返った村山さんは、やけに楽しそうだ。その様子に気が抜けて、思わず立ち止まった。色んな気持ちを押し潰してきたこの一年ちょっとが、走馬灯のようにサーッと流れていく。我慢する必要なんて何もなかったのだと思うと、無性に腹が立った。


「だって、急に名前呼ぶなんて!」

「無事にサナギから羽化できた記念。おめでとう」


動かない私の元へやってくると、ぽんぽんと頭を撫でてきた。そんな行動をされると、怒っていたはずなのにうっかり村山さんの手のひらへ意識が集中してしまう。本当にずるい作戦だ。


「うーん、暗くて顔がよく見えなくなってきた。このまま抱きしめてもいい?」

「何言ってるんですか! 嫌です」


さも当然のように尋ねてくる村山さんに、おののいて一歩後退る。するとパンプスにコツンと硬い衝撃があり、逃げられないことに気付いてしまった。


「照れちゃって。あー懐かしい反応だなあ。相変わらずかわいいね」

「都合のいいように解釈しないでください!」

「解釈させるような態度を取るのも悪いと思わない?」

「思いません!」


終わりの見えない、不毛な論争だ。しかも大きな声を出して疲れた。じりじりと追い詰められて、背後の壁からはもう下がれないと分かっていても必死で背中を押し付ける。


「そう言えばさ、僕の使ってる香水について知りたがってたよね」

「……」


突然話題が変わったと思ったら、先ほどとは打って変わって悪魔のような笑顔が現れた。完全に嫌な予感しかしない。


「約束通り教えてあげる。耳貸して」

「ちょ、ちょっと待ってくださ……」


「ーーーーー」


確かに知りたかった。知りたかったけれど!
……普通に教えてくれればいいのに。

喉元まで出かかった文句も苦情も、懐かしくて恋しい香りに包まれれば途端に凪いでしまう。


ーー腕の中、耳元で囁かれた小難しいブランド名なんて、あっという間に空の彼方へ飛んでいってしまった。

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