Dear Hero
鍵をカチャリと開け、玄関に入るとくるりと振り返る。

「いつもありがとうございます。帰り、気をつけてくださいね。…おやすみなさい」
「戸締り、しっかりしろよ。おやす……」
「…?」
「……っ」

少し寂しげな笑顔で手を振る水嶋が名残惜しくて、気づいたら一歩踏み込み、手を握っていた。
俺の足で支えられていた扉がガチャンと閉まり、玄関は暗闇に包まれる。


…バカだ、俺。
今まで考えた事もなかったのに、いつも水嶋が傍にいるシチュエーションを想像したら、もう我慢できなくなってる。
水嶋と離れたくないのは俺だ。
“自分で決めろ”なんてかっこ良く言ったけど、“NO”の返事を聞くのが怖くてたまらない。
いっそ、このままもう一度家に連れて帰りたい。
俺、いつからこんなにも水嶋の存在がでかくなってたんだ―――――


「澤北…くん…?」


急に手を握ったまま何も言わない俺を、不安げに覗き込む。
情けない顔を見られたくなくて、そのまま水嶋の左肩に顔をうずめた。
柔軟剤の香りが、ぐしゃぐしゃになった俺の心を落ち着かせてくれる。


「ごめん、ちょっとだけこのままにさせて…」
「……大丈夫、ですよ…」


鈴のような声が耳元で聞こえて心地いい。
小さな手が、俺の頭をポンポンしてくれている。
包み込まれているようで、すごく安心した。


このまま、抱きしめてしまいたい。
でも、今の俺じゃ抱きしめたらもう離さなくなってしまうだろう。

少しの間、水嶋の香りと体温を感じるとそっと顔を離した。
奥の部屋のレースカーテン越しに漏れる月明かりで、きっと残念な顔も見られてしまってるんだろうな。


「ごめん…急に…」
「…ふふっ」
「え、なに?」
「澤北くん、いつも私には謝るなって言うのに、今日は澤北くんが謝ってばかり」
「……ごめ…って、あ…」

目が合うと、いつもの優しい笑顔が目の前にあってほっとした。
なに焦っていたんだろう、俺。
水嶋の笑顔はいつもここにあるのに。


「気をつけてくださいね。おやすみなさい」
「…おやすみ」





この日をきっかけに、俺の中に一つの決意が生まれた。



そして。
俺は何もわかっていなかった。


この選択により、恐ろしい日々が待ち受けている事を―――――
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