今宵、エリート将校とかりそめの契りを
(嫌だ。そんなことになるなら、今ここで舌を噛んで……)


ブーツの踵を鳴らして近付いてきて、目の前で両足を揃えて立ち止まった総士を見上げた琴の心臓は、ドキドキと早鐘のように打ち鳴っていた。


パレードの最中、屈辱的な思いで見上げた時と同じく、総士はどこまでも涼やかな表情だ。
あの時も今も、彼からは、慈悲や情けといった人間らしい感情がまったく感じられない。
先ほど木から落ちた琴を受け止めてくれた時は、驚きのせいもあったか、いくらか鉄仮面が綻んだようだったが……。


(感情なんかなくて当たり前。だからこそ、お兄様を戦地で見殺しにするなんて、非道な真似ができるんだから……)


琴の二つ年上の兄・顕清の戦死の知らせを聞いた時の、心臓が凍りつくような感覚は一生忘れられない。
空気を切り裂くような両親の泣き声は、今でも鼓膜に焼きついている。


父が事業に失敗してからの数年、ただでさえ火が消えたようだった家の空気が、その後完全に澱んで停滞した。


顕清は両親にとって、たった一筋の希望の光だった。
資金繰りに窮し、傾いていくだけの早乙女子爵家にとって、顕清の軍部での活躍、昇進だけが頼りだった。
そんな彼の死は、早乙女家の死、そのものだったのだ。
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