やく束は守もります
▲初手 朱夏



蝉時雨を聞いたのはいつのことだろう、と香月は手を止めた。

色あせた記憶を掘り起こす間も、古くなったエアコンの音さえ掻き消す勢いで、一匹の蝉が鳴いている。
隣の家のカエデにでも止まっているのだろう。
ずいぶんと音が大きい。

一匹の蝉の声は、とてもうるさい。
蝉時雨はあんなに静かなのに。


蝉の声が止んで、香月は時計を確認してから慌てて作業に戻った。
勤務先から社割で購入してきた上生菓子は、すでに秋を意識したものになっている。
緑餡を葛でくるんだ「こぼれ萩」と、練りきりの「桔梗」をお皿に移していく。
それを美しいと感じるのに、自分の胃より少し上、その奥の奥に、少しずつ何かが沈殿していくような気持ちになる。
麻婆豆腐にとろみをつけるとき、あらかじめ溶いておいたはずの片栗粉が沈殿して、水と白いどろどろした固まりに分離している、あれによく似た。

鼻から深く息を吸って止め、わずかに開けた口からストンと落とすように息を吐く。
そうするとその白いどろどろが少しだけ減ったような気持ちになった。
箸で片栗粉をかき混ぜるように。


香月はストンと息を吐き出した。
これで何度目になるのか。
この溜息は空気よりも重いだろうから、床に積もった溜息が見えるのではないかと、足元に視線を落とす。
見えたのはフローリングとベージュのスリッパだけだったのに、その上にもう一度溜息を吐き出した。

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