甘え上手でイジワルで

秘書室からの異動

 新幹線の車窓から見える景色は、灰色からどんどん黄土色に変わっていく。
 ビルの町並みから、稲が刈り取られた田んぼに変わっていくまで、そう時間はかからなかった。
 東京にある本社から新幹線を使い目指すのはA県にあるキタガワの工場だ。
 この工場が、私の異動先である。

 新幹線を降りて、ローカル線を乗り継ぎ、バスに乗ってやっと工場に着く。
 高い屏が巡らされた工場は大きい。野球場が何個分だろうか。私も新人研修で見学に来たきりで、どうやって入っていこうか戸惑う。
 守衛さんに声を掛けると、心得たというふうに、すぐに内線をかけてくれた。
 それにつけても、工場のまわりは見渡す限り高い建物がない。遮るもののないせいか、やけに風が冷たい。
 おそらくそれは多分に私の異動への暗澹たる思いを反映しているのだ。
 お世話になった豊田秘書室長の顔を思い浮かべる。社内の女性社員の憧れである豊田秘書室長は異動の経緯を私に説明し、優しく「頑張っておいで」と励ましてくれた。

「……駒川、彩未、がんばり、ます」

 私は呟くとコートの襟を引き寄せた。何だか鼻の奥がつんとして……。
 守衛さんに背を向けて、車通りのない工場前の道路を正面に立つ。
 今日からここの工場の借り上げのアパートで一人暮らしも始まる。
 しゃんとするんだよ、彩未!
 私はすんと鼻を啜った。すると、鼻の奥がもぞもぞっとして、両手を口元にあてて私はくしゃみした。

「んっ……ちゅんっ! ちゅん!」

 その時である。
 私の背後から、笑い声が聞こえた。

 慌てて振り返ると、スーツを着た男性が立っている。
 彼はくすくすと笑いをおさめて、私に向かって目礼した。
 彼の胸に揺れるIDカードには、Takashi Kusakabe と記されている。

「あ、あの……?」
「お待ちしてました」

 彼はやわらかな笑みを浮かべて、私に向かって手を差し出した。
 長身で、手足が長い。スーツの着こなしはモデルみたいだ。
 甘く端整な顔立ちは、芸能人でも通りそうだ。
 さらさらの茶色い髪は、襟足が短くて、前髪は目にかかるくらい長い。清潔感があった。
 それにしても若い。 じっと見ていると彼がぷっと吹き出した。

「あ、すみません。随分かわいいくしゃみだったから……我慢してたんですけど」

 彼はまたくすくすと笑う。
 実はくしゃみが……変なのは、昔からのコンプレックスだったのに。
 自分の顔が赤くなっていくのがわかった。でも、化粧が誤魔化してくれたと信じたい。
 私はここに仕事をしに来たのだ。コンプレックスのひとつやふたつ!
 えへん、と咳払いをして、彼の差し出した手に手を重ねた。

「……ようこそ、駒川 彩未 先輩」
「あっ」

 ぎゅっと握られた手の力が、思いがけなく強くて驚いてしまう。
 彼は私の手を引っ張ったまま、すたすた歩き出す。

「あ、あの、スーツケース!」
「運ばせます」
「いやあの、先輩って」
「今日から先輩の補佐をさせて頂きます。よろしくお願いします」
「あ、あの、君ねぇ」
「草壁です。ファーストネームで呼んで貰ってもいいですけど」
「草壁くん!」

 急に草壁くんが立ち止まって、私は彼の背中に顔から突っ込んでしまう。
 背が高い! ――本当に。彼の背中にすっぽり隠されてしまって、風の冷たさもどこかに行ってしまった。

「この工場には、キタガワの技術開発センターがあります。先輩の配属先は、このセンターのアドバンストテクノロジー研究室、略してAT室になります。
 敷地がバカみたいに広いんで、車に乗って貰っていいですか」

 草壁くんはまだ私の手を放さない。
 おそらく彼が乗ってきたであろうエンジンがかかったままの車の助手席を空け、私を座らせる。
 運転席に滑り込んだ彼が、ふいに覆い被さるようにしてきて、私は悲鳴をあげた。

「きゃっ! な、なに!?」
「シートベルトです。国道ではないですけど、安全第一ですから」

 にっこり間近で笑われると、文句が言いにくい。
 それにしても、この草壁くんとやら、距離感が近すぎやしないか。
 何を隠そう、隠してないけど、いや、隠しちゃってるけど、私は男性と付き合った経験がない。
 どんどん年を重ねていくうちに、異性に興味を持つこと自体なくなってきたと思っていたくらいなのに。
 彼のフレグランスの香りがする。彼の好青年然とした風貌に比べ、やけに甘ったるく蠱惑的な匂いだった。
 シートベルトがかちりとはまると、草壁くんは体を起こしハンドルを握る。しなやかな身のこなしに見とれてしまう。
 匂いだけがまだ纏わり付いていて、私は居心地悪く尻をもじつかせた。
 初対面の私に対して……彼は、誰にでもこんなに馴れ馴れしいの?

「すぐ着きますよ。着いたらまず昼食ですね。ランチミーティングで顔合わせも兼ねてでいいですか」
「いいわ。あの、草壁くんは今回の異動のこと何て聞いてるの?」
「先輩が聞いているのと同じかと思いますが」

 キタガワは先月、アメリカの投資ファンドから仕掛けられていた買収に決着がついたところだ。
 各方面に業務を拡大したキタガワは経営難に陥った。ここを狙われた形であるが、投資ファンドの出資を受け入れ、経営権を一部持たせることで、双方の利益を目指すことになった。

 草壁くんは、自分の首に掛かったIDを持ち上げると、ひょいと裏返した。キタガワの文字と、C&Nの文字――投資ファンドの社名。
 経営と資本。要するに、キタガワはC&N側の人間を受け入れた。
 草壁くんもそのうちの一人。だから、ただの私の補佐のはずがない。
 彼らがC&N社にどんなことを報告するかで、これからが決まる。

「日本に戻ってきたのは久しぶりです」

 屈託なく草壁くんは笑う。
 まるで嘘などなさそうに、軽快にハンドルを切る。

「秘書室から一番有能な人材を出してくれって、僕がお願いしました」
「草壁くんが? あなたにそんな権利……」
「AT室のメンバーに会って頂ければ、僕がそんな直訴をせざるを得なかったことがわかりますよ」
「私は研究者達がよりよい環境で研究を進められるようにって辞令を」
「ええ、だからそれが難しいんですよ。少なくとも僕にはお手上げです」
「……嘘、そんな風には見えないけど」
「やだなあ、いたいけな後輩に」
「後輩後輩って、あなたいくつなの?」
「僕ですか? 二十五です。あっちで飛び級してるので、実務経験はそれなりにありますよ。資格は……」
「ああ、もういい、もういいから」

 車が止まる。
 草壁くんは車を降りると、当然のように助手席のドアを開けて、私に手を差し出した。お姫様にワルツを申し込む王子様みたいに。

「一人で降りられるわ」
「先輩」
「あのね、君がどんな経歴で、お国ではどうだったかは知らないけど。ここは日本で、私は仕事をしに来たの!」

 草壁は手を後ろで組んだ。

「すみません、やっと先輩に会えたのが嬉しくて」
「リップサービスは結構です!」
「わかりました、仕事の時の先輩はクール。惚れ直しました」

 彼の言葉を聞き捨てて、私は盛大にため息をついた。
 ……からかわれてる。
 冗談にしてもたちが悪い。
 会って三十分もしないうちに惚れ直すとか、絶対ない。
 きっと彼には、私がたかが手を繋がれたり、近寄られただけでどぎまぎしたのが、伝わったのかも知れない。
 免疫が足りない私に、ちゃらちゃらした彼。
 組み合わせたって、相性が悪いのは目に見えてる。
 どうやら、新しい職場で得た部下は、やっかいな曲者みたい。
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