臆病なうさぎは旦那さまと大空に飛躍する

 


 しばらくは居間のソファに二人、紅茶を啜りながら積もる話に花を咲かせていた。
 口下手で、あまり多弁ではない私だけれど、恭介君相手だと会話はとてもスムーズだった。十四年の空白を埋めるのに、時間はあってあり過ぎる事が無かった。
 特に海外生活が長い恭介君の話は、聞かされる全てが新鮮で物珍しかった。同時に、恭介君への尊敬の念が湧き上がる。

「……凄いなぁ。見知らぬ土地で学業を修めて、就職して、働きながらMBAまで取得して……、殻に籠って暮らしてる私とは大違いです」

 感嘆と共に告げた。
 だけどそれを聞き付けた恭介君の表情が、僅かに陰りを帯びる。

「……燈子、一見すればそうかもしれない。だけど俺は父の期待を投げ出す勇気がなかった。正直俺は小手先の器用さはあるから、この後の社長業も熟せば熟せる。だけど本当にやりたい事は、貫く勇気が持てなかった……。だけど捨てきれず、今もその縁に縋っている」

 ? 恭介君の言葉はよく、分からなかった。

「燈子、燈子は違うだろう? やりたい事を、燈子は今も続けてる」

 ドキリとした。
 恭介君が言う「やりたい事」、もしかするとそれは、絵の事を言っているんだろうか?

「燈子、君の絵がみたい。燈子は今も、描いているだろう?」

 恭介君は当たり前のように、私が描いているを前提にした。

「……どうして?」

 私が絵を描いている事は、誰にも伝えていない。もちろん両親は知っているだろうけど、私から絵の話題を振った事はこれまでない。

「理由は分からない。だけどはじめて燈子のスケッチブックを見た時、きっと燈子は描き続けるんだろうと確信した。それからも折に触れて会う燈子は、絵に没頭していたみたいだから、これはもう間違いないと思った。事実今も、燈子は描いているだろう?」

 私を見上げる恭介君の双眸。もしかすると恭介君の目には、事の真相が透けて見えるのではないだろうか?
 恭介君の煌く瞳に、一瞬だけそんな馬鹿げた想像をした。

「……絵は、二階の私の部屋で描いてます」

 絵を、誰かに見せる。それは私の心を見せるに勝るとも劣らない行為。だけど不思議と、恭介君には見せてもいいと、そう思えた。
 何故か、そう思った。

「こっちです」

 私がソファを立てば、恭介君も立ち上がる。
 居間を出て、階段を上る。恭介君も私の後に続き、階段を上った。
 部屋の前に辿り着き、ドアノブに手を添える。
 ドアノブを握る手が、一瞬だけ戸惑いに揺れる。けれど僅かな逡巡の後、私はドアノブを捻り、ドアを開けた。

「どうぞ、入ってください」

 私はついに、これまで誰も通した事のない自室に恭介君を通した。

「おじゃましま、……!!」

 一歩足を踏み入れて、恭介君が息を呑む気配が伝わった。
 私の自室には、これまで描き溜めた多くの絵がひしめいていた。物心ついてからは、両親にだって見せた事のなかった絵。

「……凄いな」

 恭介君はただ一言、そう言うと、無言のまま数多ある絵を眺めはじめた。
 自分の中で、これはと思う幾枚かは額に入れている。けれどそれ以外にも、ファイリングしただけの物だったり、無造作に積み上げているだけの物もある。
 恭介君はそれらの一枚一枚を、言葉のないまま、食い入るように見つめていた。

「……燈子、俺は海外暮らしも長い。それなりにものを見る目は養っているつもりだ。ここにある絵は、ここに留めておくべきじゃない」

 そうして長い時間をかけて全ての絵を見終えると、恭介君は私を振り返り、真剣な眼差しで口を開いた。

「どれもこれも、世に知らしめるべき秀逸な作品だ。これらはコンクールに応募して、相応しい評価を得るべきだ」

 恭介君はそう、言葉を重ねた。
 私はこれまでコンクールやコンテストはもちもん、友人らの目にだって一度も触れさせていない。
 絵を描く事は私の心の吐露。それは自己完結した行為で、人からの評価を望んではいなかった。
 緊張に、ゴクリと喉を鳴らす。

「……応募して、みようかな」

 必ずしも評価を望む訳じゃない。
 だけど人の目に触れさせるその一歩を、踏み出してみようか……。

「ああ! 応募してみるべきだ!」

 力強く返った恭介君の言葉に、胸が熱を持った。

「……恭介君、ありがとう」

 評価を望まないと言いながら、心の奥底で見てもらう事を望んではいなかった?
 私の心を映した絵に、誰かが目を留めて、何かしらを感じ取ってもらえたらと、そう望みはしなかった? 
 本音では、こんなふうに認められたいと、望んでいたでしょうーー?

「恭介君に背中を押してもらって、私は新しい私に、踏み出せそうな気がします」

 ……湧き上がる熱は胸を満たし、そうしてじんわりと目頭までを熱くする。

「……燈子、燈子の絵がこんなにも魅力に溢れるのは、燈子自身の魅力だ。何に気後れする事もない、自信を持てばいい」

 耳元で、恭介君の囁きを聞いた。同時に、恭介君の長く綺麗な指先が、私の目尻に触れた。
 ハッとして見上げれば、恭介君が拭ったのと反対の目尻から、ホロリと涙の雫が落ちた。
 私は初めて、自分が泣いてる事に気が付いた。
 そんな私を、恭介君が優しい眼差しで見下ろしていた。

 差し込む夕日が、長く影を作る。私の影に、恭介君の影が重なった。
 私の唇に恭介君の唇が、そっと重なる。触れ合う唇同士、だけど実際に触れ合ったのは心と心。私の心と恭介君の心が折り重なる、そんな錯覚に酔いしれた。
 そうして胸の中、溢れる想いは形になって、確かな輪郭を描き出す。

  ……私はこのまま、恭介君と結婚したい。
 
 結婚話がまだ有効であるのなら、破談にはしたくなかった。
 けれど、結婚は結果。その過程には、恭介君へ確かな愛が胸にある。
 今はまだ蕾の感情はけれど、このままでは終われない。
 それは確信にも似た思い。偽らざる、私の心。
 私は他ならない恭介君自身に、恋をしているーー。そしてその恋は膨らんで、やがて特大に咲き誇る。

「……恭介君、私、恭介君が好きです」

 重なった唇と唇に、隙間ができる。
 遠ざかる恭介君の温もりに追い縋ろうとでもするみたいに、吐息と共に漏れ出た呟きが二人の隙間を埋めた。
 私の精一杯の勇気。大きな、とても大きな私の飛躍。
 恭介君は弾かれたように私を見つめた。大きく見開かれた恭介君の双眸は、真摯な光を湛えていた。その瞳には、私の姿が映っていた。
 
「燈子!」
 
 次の瞬間、熱く激しい抱擁が私の呼気までを奪う。強い力で、厚い胸板に抱き締められた。
 長身の恭介君の胸にすっぽりと抱き込まれ、全身が恭介君の温もりと香りに包まれる。歓喜の渦が私を呑み込んで、全身を燃え立つような熱が巡る。
 だけどはじめての抱擁がもたらしたのは、熱い激情だけじゃなかった。私だけの居場所を得たような、深い安心感が私を満たす。
 相反する二つの感情が私の中、溶け合って混ざり合い、温かな情愛となって胸に落ち付いた。

「燈子、今も昔も、俺は燈子が好きだ。だけど今の燈子は俺の予想を遥かに越えて、愛しすぎるくらいに愛おしい」
「! 恭介君……」

 恭介君のくれた告白に、私という存在がまるで魔法でも掛かったかのように、特別に思えた。
 これまでずっと、自分に自信がなかった。
 だけど今は、ありのままの私で恭介君に向き合う勇気が湧いてくる。
 
「一度は結婚話をなかった事にしたいと言った私です。虫が良すぎると思うかもしれません……」

 もう、伝える事に躊躇いはなかった。
 心の内、積もる想いを余さず言葉にーー

「だけど私は、恭介君の奥さんになりたいです。私を恭介君の奥さんにしてくれますか?」

 伝えれば、言葉は明確な形となって結ばれて、ストンと胸に落ち着いた。
 私は恭介君が好き。好きだから、恭介君を望むのだ……。

 全てを伝え、恭介君を見上げる私の心は、とても穏やかだった。恭介君もまた、静かな瞳に優しい光を湛えて私を見下ろしていた。ふわりと、恭介君が笑う。優しい笑みに、心が綻ぶ。

「当たり前だ。俺が妻にしたいと望んだのは、今も昔も燈子一人だ」

 恭介君へのとめどない愛おしさが迸る。

「俺の妻は燈子、君以外いない」

 ……恭介君の愛に、魂が震えた。



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