優しいスパイス
研究部屋は、リビングダイニングを出た廊下の突き当たりにある部屋。



ドアの隙間から明かりが漏れているのが見える。



部屋の前まで近づいて、中の様子を伺うためにそっとドアに耳を付けた。



「……あー、うーん、どうしたものか……」



唸るように呟くお父さんの独り言を耳にして、今なら開けてもいいだろうとドアノブに手をかけた。



ガチャ、とドアを開けると、頭を抱えながら机に向かうお父さんの姿が目に入る。



「お父さん、ただいま」


「ん? おお、おかえり紫映。もうそんな時間か」



お父さんが、ははは、と笑って、机に散らばった紙を雑に纏めた。



研究部屋には時計がないから、いつもお父さんは私の帰宅で時間を知る。


だけど今日はそれがいつもよりだいぶ遅い時間であることは黙っておいた。



「うん。ご飯食べよう」


「そうだな、食べよう食べよう」



よいしょ、と立ち上がって、部屋の電気を消すお父さん。



「今日は学校楽しかったかい?」



リビングに向かいながらお父さんが投げかけたのは、もう小学生の時からずっと変わらない質問だった。



毎日、同じ。



子どもの頃は、正直に答えていた。


私が頷けば、嬉しそうに微笑んで自分の研究のことを楽しそうに話し出し、首を振れば、心配そうに眉を下げて静かに自分の過去の話を始める。



だけど中学生、高校生と年齢が上がるにつれて、私は学校で何があっても「うん」と答えるようになった。



今日だって例外じゃない。



チラリと脳の隅に、講義室で見た香恋と春木先輩の姿が浮かぶ。



「うん、楽しかったよ」



答えると、お父さんは嬉しそうに微笑んだ。



それからいつものように、お父さんの研究話を聞きながら夕食を食べ、食器を片付ける。



お風呂に入り、大学の課題も終えて、あとは明日の準備をして寝るだけ。



ふぅ、と一息ついて、鞄を漁った時。


電源が切れたままのスマホに気が付いた。



ドクンと心臓が嫌な音を立てる。



香恋の電話を電源ごと切って、ずっと放置していたことを思い出して、ズッシリと胸が重くなった。



香恋、怒ってるよね。




おそるおそるスマホに手を延ばし、電源ボタンに指を置く。



ドクドクと心臓が重く動くのを感じながら、電源ボタンを長押しした。



数秒押すと、画面が明るく光って起動の動作が始まる。



――――ブブーッブブーッ



「っ……」



起動が終わった瞬間にスマホが振動して、目に映った数え切れないほどの通知に、思わず息を呑んだ。
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