花の名前

6

 目を覚ました時、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。
 食べ物やタバコが混じった匂い…そうだ、今日は歓迎会で、“あの”先輩に絡まれて―――それからどうしたんだっけ?

 起き上がってぼんやりしていると、近くの襖が開いた。

「ああ、起きました?」
 自分のいた部屋は暗く、彼の後ろは廊下になっていて少し明るかったから、逆光になって表情がわからないけど、声で男の人だというのはわかった。
「もう大丈夫ですか?」
 と聞かれても、まだ頭がぼんやりしているせいでなんの事だかわからない。それをどう捉えたのか、“彼”が苦笑した。
「覚えてないですか…どうしましょう?もう閉店なんですけど、タクシー呼びますか?」
 タクシー…と頭の中で反芻して、そこでやっと我に返った。
「あ、いえ、大丈夫です。帰ります。」
 バスの時間を見ようとバッグを探すと、上着とバッグはそちらに…と教えられる。
 携帯を取り出して開いた所でぎょっとした。
 1:25―――って、え、見間違い?
 思わず117とボタンを押した。

 午前1時26分30秒をお知らせします、ピッ…、ピッ…、ピッ…、ピーン―――

 無情に響くアナウンスに呆然とするのと、目の前にいた“彼”が盛大に吹き出すのが同時だった。



「変わってるよね、そこで時報とか。だから、まあ、たまにはいいかと思ってさ。」

 何を言ってるんだろう…どうして急にそんな事を?
 不意にカズが立ち上がってこっちにやって来る。反射的に自分も立ち上がったけど、長いストライドであっという間に側に来たカズに腕を取られた。
「歩いて帰る?」
 なんて、無理だよね?―――そう言いながら、腕を引き寄せる。強く抱き竦められて、思わず息を詰めた。
 正直に言えば、そんな事をされたのは生まれて初めてで、どうしていいのかわからない。
 硬直していると、カズが声を立てずに笑った。
「ねえ、トーコさん、あんな時間にこんなとこに連れてこられて、おかしいと思わなかった? 普通、何されても文句言えないよね?」
 言われてみれば確かにそうだ。ここに着いた時、少しだけ恐怖を覚えた―――だけど…
「そんな人には見えなかったよ?」
 三十も近くなれば、下心があるかないか位は見ればわかる、と思って言ったら、カズが「見る目無いね」と言いながら、更に力を込めてきた。カズはほっそりとした見た目の割に力が強い。段々息が苦しくなってくるのは、拘束されてるせいだと思いたい。
 ギュッとカズの服を掴み、深呼吸をして息を整えた。
「もう、離して。」
 いつもより小さかったけど、震えてはいなかったと思う。でも、カズがまた笑ったので、カチンときた。
 ふざけ過ぎだ―――文句を言ってやろうともがき、何とか顔を上げると、逆に首の後ろを摑まれて上向きのまま固定された。
 見下ろしてくる“胡散臭い”笑顔を睨み付けると、そのまま顔を近付けてくる。
 逃げるつもりは無かった。
 キスしてきたら噛みついてやる。もしくは頭突き。そうすれば、この拘束も取れるはずだ。
 でも、どっちも出来ない距離でカズが動きを止めた。
「不思議だよね? トーコさん、バージンなのに、キスは平気なんて。」
「バッ―――」
 いきなり何を言うかっっ!!
 途端に動揺した。心構えが出来てれば対処出来るのに、ここでそれ?!
「“先輩とも”した?」
「はあっ?!」
「1回や2回じゃないよね?」
 キスの事かと気が付いて、更に睨み付ける。人聞きの悪い―――酔っ払いが仕掛けてくるキスなんて、キスの内に入るわけが無い。
 大体、酔うと箍の外れる男は多い。不意打ちさえされなければ躱せるし、頭突きを食らわせれば2度と仕掛けては来ない。酔ったふりで「親愛のジョーですよ~?」と言えば、角も立たない。
 セクハラまがいの下ネタだって、赤くなると喜ばせるから、平然とした顔で話に乗ってやる―――セックスなんてした事なくても、話だけなら適当に合わせられるのだ。子供じゃないんだから。
 そうでなければ男社会ではやっていけない。
 飲みを断ってばかりいると、付き合いが悪い、これだから“女”はと言われるのがオチだ。

 でも決して平気な訳じゃ無い―――カズは知ってると思ってたのに。

 ゴクリと、喉元に込み上げたものを飲み込んだ。
「バカにしないで。」
 キスぐらい、したけりゃすればいい。そんなもので傷付いたりなんかしない。
「してないよ。」
 そう言って、カズは笑顔を引っこめると、今度は逆に顔を歪めた。
「してるのはトーコさんの方だ。…他のヤツと一緒にするなんて…」
「え…?」
「あんな顔…」
 そう言ったカズの顔が泣きそうに見えて、つい、気を抜いてしまった。

 どうしたの?、と。

 聞こうと開いた唇を、カズの唇が塞いだ。
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